第2話

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「いつもそんな感じなのか? ……ずっと不機嫌だ」  小さな声で問う。返事はないと思った。 「あなたは俺に何を期待してるんですかねぇ」  満は慌てて顔を上げた。目は合わない、彼は顔ごと別の場所を見ている。 「期待なんて……そりゃ、勉強だろう」 「本当ですか? まぁどうでもいいです。余計な会話なんてしない方がお互いのためじゃあないですか」 「……どういう意味さ」 「立場的な力関係がハッキリしているならなおさら。顔に書いてますよ」 「俺は別に……っ」  そうかもしれない。心の片隅で満は揺らぐ。  自分の発言が永墓氏の人事評価に影響するかもしれないと恐れながら、蛍輔自身を永墓氏の評価物として重ねて見ていたのではないかと。  立場が下の人間なら俺を丁重に扱って当たり前だという甘え。自分の無意識なあさましさを見透かされた気分だ。  だが認めたくない。指摘されながらも、舌打ちや無視はどんな立場であれ初対面の人間に行うものではないと満は信じる 。 「ろくに俺の顔も見ないくせによく言うよ」 「……見てましたよ」 「なんだって?」  意味が分からなかった。ほとんど目が合った記憶がない。 「友だちになるわけじゃあるまいし、何の意味があるんです」  言いながらおもむろに満の数学の教科書をパラパラめくっていく。散々に満の心を抉りながらも、蛍輔は一応は家庭教師らしいことをするつもりらしい。  密度の高いページが出た途端、沈黙に重さが増した。  満は教科書の努力の跡には自信があった。  今、蛍輔が見ているページ。余白は満の書き文字でびっしりと埋まっている。その上、説明文にたくさん引かれたカラフルなマーカーに矢印と……満がいかに授業に集中し手を動かしているかが見て取れる。塾の講師にも努力家だと褒められたぐらいだ。  数学だけではない。渡した全ての教科書はほぼすべて同じようになっている。満はぜひ目を通してほしかった。せめてこのまま授業がスムーズに始まるような、会話の糸口になれば嬉しかった。  だが満の理想はことごとく砕かれる。蛍輔は他の教科書に目を通すことはなかった。数学の教科書をぱたんと閉じ、またため息を吐く。ため息ばかり、嫌な男だ。  驚いたのは次の言葉だ。 「――これの面倒をおしつけたのか」  ぽそりと独り言のように呟かれた言葉は、カラオケ店にしては静かすぎるこの部屋で満の耳に届くには十分だった。 「悪かったな! 俺なんかで!」  飛び出した瞬間、満は自分自身に驚いた。なんでこんな、まさか俺がこんなことを言うなんて!  言ってしまった後の空気は冷たく重い。冷静になれと自身に言い聞かせる。真っ白な頭で満は必死に言葉を考えた。 「俺が何かしたか?」  なんでこんな言い方になる。 「俺が何かしたなら謝るさ。してないからな! そんなに嫌なら、初めから断ってくれた方が楽だった。あぁ、無理か。俺たちが何をしようと親の評価に直結するんだからな。お前は勉強だけ教えればいいと思ってるけど、その態度は全部親に帰るんだ」  八つ当たりのように怒りをぶつけてはいけないと香純から教わったことがある。無理だ、暴れる感情を押さえつけられない。本当はこんなことを言いたいんじゃないのに。 「俺だって来たくなかった!」  言い切って、ようやく満は熱が引いていくのを感じた。小さな子どもの癇癪のように喚き散らすなんて初めてだった。情けない、すぐに後悔の念が押し寄せる。 「ごめん……母さんには俺から当たり障りのないよう言っておくよ。永墓さんの人事評価にも影響出ない様に、それがいい、それがお互いベストだろ」  蛍輔は何も言わず虚空を見つめている。彼の手からはいとも簡単に教科書を回収することが出来た。満にはもうそれしか出来なかった。  後味が悪い。俺は悪くないはずなのに。 「代金は置いておくから」  お釣は回収するつもりはなかった。満はローテーブルに千円札を置き荷物を持ってドアへ向かう。最後に蛍輔の顔を見る気も起きない。ドアハンドルに手を伸ばした時、強い力が満の肩を勢いよく引っ張った。 「うわっ!?」  突然のことに思わず目を閉じた。身体が反転しドア横の壁に背中を打ち付ける。  何が起きたのか分からなかった。背中の痛みを知覚した途端、止まった呼吸も心臓も早く短く動き出す。満は怖くて瞼を上げることができなかった。 「親がどうなろうと知ったこっちゃない」  静かに、力強く蛍輔が言葉を落とす。 「家も最上も大嫌いだ。親の言いなりになっているあんたも……!」  苦しそうに絞り出された声はもはや悲鳴に近い。けれども今の満の心には響かない。混乱で言われた言葉の意味も理解できなかった。  言いなり? 俺は言いなりになってなんかない。サイジョウのことも、家族のことも考えただけじゃないか。 「なんで、嫌いとか言うんだよ……」  自然と言葉が零れていく。ぐっと両腕が痛んだ、蛍輔の手に捕まれていたことにようやく気付く。 「自分の家族のことだろっ、なんで酷いこと言うんだよ!」  満は閉じていた瞼を、下を向いていた顔を上げる。自分が正しいと信じたからこその行動だったが、すぐに後悔する。  眼差しに貫かれた。目をそらすことの出来ない怒りが真っ直ぐに満を睨みつけていた。  満は自信をなくした。これほどまでに拒絶された自分は本当に正しいのだろうか。何かを間違えているんじゃないだろうかとすら思わされる。 「何度も何度も何度も振り回したあげく、俺のやりたいことを犠牲にしてサイジョウに媚びを売る。あなたが大切にしろという家族は随分とご立派だ」  何の話だ。困惑する満を冷ややかに見つめながら蛍輔は続ける。 「私の父はあなたの父親に借金があるんですよ。返済が難しいが今のキャリアは失いたくない。その代償として無償で自分の息子の面倒を見ろと言ったのは、あなたの母親じゃあないですか」  満は我が耳を疑った。信じられなかった。 「まっ、ママがそんなずるいことするはずがない!」 「やれやれマザコンですか」 「違う!」  飛び出した怒りが蛍輔を睨みつける。それでも彼の冷たい瞳は揺るがない。地面が崩れ底が抜けそうな感覚に陥りながら満は必死に否定した。 「で、でも! それだけで許されるなら簡単なことじゃないか! お前が次の期末テストまで一緒に頑張ってくれたら……!」  そうだ、父親の代わりに家庭教師をするだけで帳消しになるのなら安いもの、つり合いがとれないほどだ。 「俺を犠牲にしても自分の評価が大事ですか」  あまりにも静かな声が棘となって満の心に突き刺さる。  視界の中の蛍輔が突然ぼやけ始める。満ははじめ蛍輔が泣いているのだと勘違いした。激情と困惑が涙の膜となって満の瞳を溺れさせる。  泣いてはいけないと、まばたきもせずに必死にこらえているとあの舌打ちが聞こえた。  両腕の拘束が弛む、蛍輔はふらりと身体を離すとそのままソファにどかりと座り込んだ。また背中を丸めて床を見つめている。  満は慌てて個室を飛び出した。廊下を駆けだし開けた受付スペースに出ようとしたが、一歩、二歩と歩みは遅くなる。  あんなにも激しい怒りを抱いていたのに、最後に彼が見せた眼差しは諦観に溢れていた。  一度目を擦り立ち止まって振り返る。あの少年の姿はない。数秒廊下の先を見つめ、満はまた足早にカラオケ店を出て行った。
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