第3話

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第3話

 満が自宅に帰宅したのは夜の七時を過ぎた頃だった。半ば放心状態で近くのコーヒーチェーン店に入り時間を潰してきたのだ。  初めて入店し気付けばコーヒーを頼んでいた。コーヒーにはミルクも砂糖も入れおらず、一口目の苦みでバチっと脳に目覚めの電気が走る。ようやく目が覚めた心地になり、心を落ち着かせるためそのままブラックコーヒーで喉を潤した。  驚いた、初めてでもちゃんと注文できるのか。自身の無意識に軽く感動したのはもはや現実逃避だ。  すぐにぐるぐると頭を駆け巡る謎と後悔の念。  永墓さんの借金は本当なのか? 本当に母さんはそんな提案をしたのか? 俺の成績が悪いそれだけで。父さんはどこまで関与しているんだ。永墓家の親子事情はどうなっている? 考えても答えの出ないことばかり。  彼を傷つけてしまった。それが全てだ。  蛍輔の悲し気な表情が脳内をちらつく。満自身が彼にそんな表情をさせたことは明らかだった。  サイジョウ食品株式会社は社員の家族も大切にする会社。恩恵が大きすぎる気もするが、永墓氏は借金を肩代わりしてもらい返し切れない借りができた。  息子の蛍輔に借金問題は相続されないものの、永墓氏の度重なる転勤は蛍輔を連れまわしたことだろう。どれほどの回数の引っ越しと転校を強いたのかは分からない。金も愛情も、子どもは親なしでは生きていけない。だがそれは間違いなく蛍輔の負担になっているのだ。  もし自分が蛍輔の立場だったならどうだ。蛍輔から見た最上満の姿とは。  家族に振り回されている少年が、恵まれている少年に家族を大事にしろと批判されたなら。  俺は何も知らなかったんだ。  馬鹿言え、永墓くんはやりたいことを犠牲にさせられたって言ってたんだぞ。それはきっと、俺の読書時間よりもきっともっと大事なことだ。  帰宅した満に香純は少し驚いた顔を見せた。 「早かったじゃない。ちゃんと教えてもらったの? 息子さんはどんな様子だった?」  最悪だったよ。でも、 「同い年で意外とやりやすかったよ。今日は授業の進行具合や勉強方法を擦り合わせたぐらいだし」  満は靴を脱ぎながら香純に顔を向けずに微笑んだ。  嘘を吐くのは苦手だ。心臓の鼓動が少し早まる。 「本人にはさすがに言えなかったけど、窟波だったら自分だって名門校の勉強で忙しいはずだよな。よく俺の家庭教師なんて引き受けてくれたよ」  とてもじゃないが本当のことなど言えやしない。 「永墓さんって父さんと仲良いって言っても直属の部下なんだろ? 何か裏があったりして」 「子どもが何を気にしてるの。全部あなたの将来のために快く引き受けてくれたんだから」  ねぇ母さん。母さんは俺のために彼を犠牲にしたの? 「蛍輔くんね、転校続きでお友だちもいなかったし、ようやく落ち着いた今でも作ってないんですって。一人で夜遅くまで出歩いてご両親も困ってるのよ」 「へぇ……」  失礼ながら、あの憂鬱な雰囲気は確かに近寄りがたいものがある。友だち作りも難航しそうだ。 「満ちゃんは家族想いだからそんなことしないでしょ? 子どもの立ち振る舞いは親の教育が疑われるんだから、満ちゃん、蛍輔くんと仲良くして夜遊びを減らしてあげてね」 「分かったよ、母さん」    香純の入浴中という僅かな時間を狙い、満は書斎でくつろぐ父・紘一(こういち)にそれとなく永墓家の話を聞いた。すると、紘一はママには内緒だよといとも簡単にすらすらと語り始めた。 「え? うん、永墓くんの借金ね。パパがむかーしにお義父さんに頼んで肩代わりして返済したけど?」 「うっそだろ、マジかよ。何言ってんのパ……と、父さん」  紘一は香純の二つ年上で、基本的には穏やかだが掴みどころのない人柄をしている。表情にも性格が現れており、目を丸くする満に対してなぜか得意げな笑みを浮かべる。櫛を通して撫で付けられた色素の薄い茶の猫っ毛は、しっかり満に遺伝していた。  次代社長としてサイジョウ食品では辣腕を奮っているそうだが満にはまだ分からない。社会情勢について話すことはあるが、ニュースや新聞で手に入る情報程度。自社のことは話題にしてくれなかった。  紘一は香純とは違い満の学業や教育方針にはあまり関わってこない。その分勉強をしろとも言わないのでどこか気軽に話せる相手だった。 「元々永墓くんのお家は代々自営業だったんだけど業績が悪くてね。永墓くんは大手企業を自主退社し引き継いだものの、すでに立て直しがきかず、結局手元に残ったのは借金だけだった。そのときはもう僕は最上のお家に入っていたし、倒産したとはいえ永墓くんの優秀さは知っていたからね。お義父さんに相談して、永墓くんの優秀さと人柄を担保に借金を肩代わりしたんだ」 「えっ、じゃあ、そこに母さんがつけ込んで!? 永墓くんに俺の家庭教師をさせろって!? 悪じゃないか!」 「満ちゃんは焦ると思ったことすぐ口に出すなぁ」 「うっ……!」  紘一はすっと目を細めて思案する。満はどきりと背筋を凍らせた。  ママを疑うのか、子どもが口を挟むことではないと怒られたらどうしよう。  だが紘一は声をあげて笑った。 「え、え? や、やっぱりママが諸悪の根源? ううう嘘だろ俺どうしたら」 「いやいや、ははは。なんだ、蛍輔くんとはもうそんな話をする仲なのか」  紘一はやたらと嬉しそうに笑みを浮かべる。 「まぁ、そうだな。全員の下心を考えるとそう見えるな」 「どういう意味だよ、まったく分かんない」 「読書好きなんだから自分で紐解きなさい」  関係あるのだろうか。ミステリー小説好きが全員名探偵だと思うなよな。  満は唇を立てて不貞腐れた。紘一の微笑みは息子の成長を祝うようで、実に満足げだ。むずがゆく、居心地が悪くなる。 「君はどうしたいんだ」 「そんなの……か、家庭教師してもらわないと、永墓くんのお父さんの評価が下がるのは嫌だし」 「いや、蛍輔くんとだよ」 「永墓くんと?」 「同い年の彼のことを考えないと。それが蛍輔くんの負担にならないか。まぁでも、お前たちなら良い影響を与えあえると思うんだがな」  影響? 小さく首を傾げる満の姿に、紘一は目を細めて笑った。 「きっと君たちは良い友だちになれると思うよ。たくさん考えて答えを見つけなさい、満」  その夜、満はノートに知りえたことを書き綴った。そうすると自然と考えがまとまるのだ。  蛍輔の怒り、永墓氏の借金、香純が永墓氏から聞いた蛍輔のこと、紘一の話。丸で囲み矢印で繋げる。  これが小説の中の物語なら反発し合う二人が共通点を見つけたり、一緒に困難を乗り越えて良いコンビになることだろう。自分を知ってもらい相手のことを知っていき、見方を変えるのだ。  「永墓くんのやりたいことって、なんだったんだろう」  俺は自分の時間を取り戻したいだけだった、彼と友だちになって。  彼とどうなりたい? まだ分からない。  満が想像した少年はダークな雰囲気を身に纏っている部分だけは共通していた。光はきっと灯さない、不機嫌で嫌味っぽい家族を嫌う死神のような顔つきだった。  普段の彼はどんな顔をしてどんな風に笑うのだろう。……笑うのか?  強い眼差しだった。怖かったが満は忘れられないでいた。あんな瞳に貫かれたのは初めてで、忘れられないでいた。
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