第1話

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第1話

 二〇〇八年、九月。私立の進学校に通う高校一年生、最上満(さいじょうみつる)は勉学に追われていた。  学ランの肩に食い込む重たい学生鞄と共に、放課後は家にも帰らず直接塾に向かう。入学してから今日までずっとだった。  通学経路にある渋谷駅で降り、いつものようにスクランブル交差点を渡る。放課後の時間帯ともあり派手な見た目の学生が多いが、満の目には入らない。平日週五で渋谷に来ているというのに今まで周囲の景色を見渡したことがなかった。  ただ一店、塾に行く際にいつも前を通る書店だけは満の目にきらめていて映る。閉店までに塾を出られたらふらと立ち寄り、ガラスの自動ドア横の壁一面を使った看板も毎日欠かさず眺めていた。  今日から新しい広告に変わっている。満は歩みをゆるめた。 『現役高校生作家デビュー作!』という大きな煽り文句が書かれた、学生たちの瑞々しい心理描写で綴る本格ミステリーと書かれている。未成年の文壇デビューと等身大の若者を描いたことを売りにしているようだ。  すごいな、とも思うし、まだ子どもなのに気が早いなとも満は思った。自分の夢が研鑽を積み数十年してようやく叶うものだからそう思うのかもしれない。九時までに勉強終わったら行こうと決め、満はまた渋谷センター街の景色を閉ざした。  有名進学塾で集団授業を受け、その日も満は必死に机にかじりついて板書と教師の発言をノートに書き取っていった。教師の口頭解説に置いて行かれないよう素早くけれどもきれいな字で、黒くノートと教科書の余白を埋めた。  全ての授業が終わった後は、コンビニで買ったおにぎり一つで空腹をしのぐ。  授業が終わると講師は次の授業に向かうか受付奥の講師控室に引っ込んでしまう。満は書き取りに力を注いでいるので授業中に質問をするタイミングをいつも見つけられないが、その代わり自習室で復習と宿題を片付けていた。  気付けばいつも通り時刻は九時近くとなっていた。もう書店には間に合わない。  自習室は三十名ほどのキャパシティーがあるのだが、この時間となると満を含め四、五名ほどしか残っていない。慣れたものだ。  荷物をまとめ開けっ放しのドアから事務局に移動すると受付は空席だった。誰かいないものかと声をかけようとしたとき、奥にある衝立の向こうからぼそぼそと声が聞こえて来る。 「最上くんねぇ」  俺のこと? 満は慌ててあたりを見渡す、他に人はいないようだ。なんとなく壁際で小さくなり息を顰めた。 「大企業ってわけじゃないですけど社長候補って負担が大きいんでしょうね」 「いやー、あそこはお母様だよ、凄いのは。一学期末の面談の時の圧がもう」 「あー、長かったし塾長なんて萎れてましたもんねぇ」 「社長になる云々より、大人になったらちゃんと自立させてもらえるのか心配だよ」  ヒヤリと背筋に冷たいものが走る。  確かに母は、満の勉強のこととなると多少強引になるところがある。まさか塾の関係者にまで言われるとは、満は申し訳ない気持ちになった。  それにしても自立くらいできるに決まってるじゃないか。サイジョウ食品に就職する頃には実家を出るさ。頼りないと思われているのか?  ムッとする気持ちを抑え、満はさも今入室したかのように爽やかな笑顔で声をかけた。 「お疲れ様でした、また明日よろしくお願いします」  衝立の向こうから勢いよく満の担当講師と他の講師が飛び出て来た。焦っている様子に「ど、どうかしましたか……?」と尋ねると、安心したのか彼らはホッと胸を撫でおろす。 「いやー他の生徒さんの相談していてね。最上くん、こんな時間なのに元気そうですごいね。若さかな」 「さすが未来の社長候補。上に立つ人間はそうでないと」 「はは、ありがとうございます。えと、ではさよなら」  満は最後まで笑顔を崩さなかった。
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