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エピローグ
翌年の3月、大津先生もまた医院を畳みました。
営業停止処分が解けた翌日から診察を再開したのですが、以前のように患者さんが来なかったのです。
いえ、患者さん達は一度は戻ってきました。
大津先生はいい先生なんだから、不正請求なんて堅苦しいお役所の言いがかりだろう、と誰も気にしなかったからです。
しかしすっかり意気消沈していた大津先生は、再開後、患者さんの求めに応じて薬を出すことを止めてしまいました。
患者達はそれを嫌い、離れて行ってしまったのです。
かなざわニコニコ薬局の代わりが決まらなかったことも、痛かったようです。門前薬局が無いと不便ですからね。
大津先生は今、神奈川県にいません。栃木県の病院で働くことに決まったので、家のことを奥様に任せ、一足先に赴任しています。
失意のどん底にいる大津先生ですが、働かないという選択肢はありません。大量の返戻によって発生した借金もありますし、息子はまだ3年生。卒業まであと3000万円は必要です。
栃木県に転居を決めたのは神奈川県内で働くことが難しくなったせいだけでなく、息子が宇都宮市内の大学に通っているからでした。もっとも同じ県内でも、大津先生の勤務地は宇都宮から遠く離れた山奥ですがね。
息子の下宿にも近くなったし、温泉に毎日入れるなんて、夢のようね。
優しい奥様はそう言って大津先生を慰めましたが、その言葉はどこまで心に響いたでしょうか。
住み慣れた自宅を不動産屋へ引き渡した後、奥様は坂を下って駅まで歩きました。
途中、おおつ内科医院の前を通りました。まだ借り手のついていない医院のドアには閉院のお知らせが貼ってあり、その前に中年の夫婦が立っています。
「おおつ医院が無くなってるじゃないか」
二人は閉院を知らなかったようで、たいそう驚いた様子でした。
奥さんもその隣で頷いています。
「どんな薬でも頼んだら出してくれるいい先生だったのにねぇ。残念だわぁ」
いい先生。
都合のいい先生。
患者さん達がこれまで大津先生を慕ってくれたのは、頼んだ薬を何でも出してくれるからだったのでしょうか。
小高い丘を、海風が吹き抜けます。
慣れ親しんだ爽やかな風。
それがこの街を離れる自分達夫婦への挨拶であるかのように感じられ、奥様はそっと涙を流したのでした。
おわり
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