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第二話:行方知れずの宏太朗
翌週、僕のもとへやって来た宏太朗は、以前より痩せていた。少なくとも、僕なんかよりは美意識の高い宏太朗のことだから、また何かに影響されたのかもしれない。昔、こんなことがあった。これを髪に梳かすように塗りつければ、きれいな黒髪になるらしいんだ、と宏太朗が嬉しそうに持ってきたのは、どう考えてもただの墨。学校の先輩から譲り受けたそうだ。宏太朗の髪は淡い焦げ茶色なので、彼なりの容姿に対する劣等感みたいなものがあったのかもしれない。だが、誰が見ても宏太朗にはその髪が似合っているし、何なら宏太朗の容姿を好いている人ならいくらでもいる。僕も他の人も「よせよ」と止めたけれど、宏太朗はやめなかった――とにかく、宏太朗が見た目に変化をつけようとするのは今に始まったことではないが、僕は会話の話題のひとつとして訊ねてみることにした。
「宏太朗、きみ……少し痩せたんじゃないか?」
さっき、お手伝いさんが出してくれた茶を啜り、宏太朗が「そんなことないよ」と笑う。「たいちゃんに心配されると、墨汁事件を思い出すよ」
墨汁事件とは、くだんの墨の話のことで、僕らがたまに話題に出しては笑い合っている話だ。そこから「あのときは止めたのに」とか、「もっと強く止めてくれよ」とか言い合って、げらげら笑った。こんなくだらないことで笑えるから、僕は宏太朗と話すのが好きだ。
笑いが落ち着いてきた頃、母さんと未散さんの声が聞こえてくるのがわかった。聞こえる声が言うには、母さんは用があってこれから家を出るとのことなので、じきに未散さんは僕のもとへ来るだろう。やがて、未散さんがやって来た。障子は開けたままにしてあるので、廊下や庭からは部屋の中は見えていたようだった。
「あら、太市朗。今日もその人とご一緒で?」
たったいま気づいたみたいに、未散さんが言う。
「え。宏太朗ですか? はい、まあ」
僕はちらりと宏太朗に目をやった。ニィッと妖しく笑いながら――本人はそんなつもりはないのだろうけど――未散さんに会釈している。
「仲がいいのね」と、未散さんにツンとした声を出されて、戸惑う。そのうち、「ごゆっくりなさって」と未散さんが行ってしまった。これはまずい。あとで母さんに知られたら、こっぴどく叱られる。未散さんがツンケンする理由はよくわからないけども、このままではいけないことだけはわかる。
「何だか、気を悪くさせちゃったみたいだねぇ……」
宏太朗も苦笑いしている。結局、僕と宏太朗は、今日のところは解散することにした。宏太朗も用事があるようだし、僕は僕で未散さんに謝りにいかねば。
……未散さんがいたのは、普段はあまり使われていない部屋だった。しかし、未散さんがここにいるので、無視するわけにはいかない。僕は野暮ったく伸びた髪を掻き、ふうと息を吐いてから障子に背を向けるようにして正座している未散さんに声をかけた。
「未散さん、あの……」
僕が近づいていたことには、とうに気づいていたらしい。未散さんはやっぱりツンとした言い方で、「宏太朗さんはもういいのかしら」と言う。宏太朗と一緒だと、何がいけないのかさっぱりわからないでいると、未散さんは続ける。
「……宏太朗さんは女顔負けなくらい、きれいな男の人だわ」
未散さんの言いたいことがわかって、僕はつい吹き出してしまった。
「ぷっ、ハハ」
確かに、宏太朗はきれいな男だろう。でも、僕にはそんなケもなければ、宏太朗だってそうだ。彼は生粋の女好きだからだ。
「どうして笑うのよ」と、ムッとする未散さんには、僕らの関係をきちんと話したことがなかったっけ……。
僕は一年前の記憶を思い出しながら、笑った。
「宏太朗は親友です。僕が大学を辞めても、呆れずに傍にいてくれる親友ですよ」
僕は一年前まで大学生だった。今のようにただの穀潰しと呼ばれずに済む程度には勉学にも励んだし、少ないが学友もいた。もう、みんな僕に愛想を尽かしてしまったけれど。僕は自ら、大学を辞めたのだ。理由は――当時作っていた絡繰り人形を完成させたかったから。ただ、それだけ。そんな僕を見捨てずにいてくれたのが、ほかならぬ宏太朗だった。
未散さんは俯いてしまった。いま、「わたしだって」と聞こえたのは、気のせいだろうか。
――未散さんに申し訳ないことをしてしまったとでも思っているのか、宏太朗は僕を訪ねてくるのを控えているようだ。一週間も顔を見ていないと、少し顔を見たくなった。僕は約束を取りつけるべく、宏太朗に葉書を出した。すると次の日には返事があって、宏太朗の住むアパートで会うことになった。
母さんに頼んで、韮粥を作ってもらった。昼に一緒に食べようと思って、鍋いっぱいに作ってもらったのだ――。
一週間ぶりに見た親友は、このあいだよりも痩せていた。驚きのあまり、韮粥の鍋をひっくり返しそうになりながらも、僕は宏太朗の顔をまじまじと見た。白い頬は少しこけたように見える。中性的な宏太朗の骨格を、初めて骨ばっているように思った。
「宏太朗、どうしたんだよ。また痩せたじゃないかっ」
宏太朗は僕を中へ招き入れつつ、小さく笑う。
「……たいちゃん。親友のきみには、話した方がいいかもしれないね」
意味深な話し方だった。まさか、おかしなことに巻き込まれたのではないだろうか。僕は聞きたいのと聞きたくないのとがごっちゃになった気持ちで中へ入った。韮粥の鍋を、狭く手入れのされていない台所にコトンと置いたばかりのときに、宏太朗は言った。
「学校の帰りに、すごく気になる古い書店があったんだ。表に貼り紙がしてあってさ、『ここに入るべからず』って書いてあって」
ここに入るべからず、か……。建物自体に問題があるのだろうか? それとも、その書店とやらは既に閉店していて、人が間違って入ってこないようにしているとか……? 僕は色んな想像をした。だけど、宏太朗が痩せていく理由には辿り着かない。
「宏太朗、いったい何をしたんだい?」
僕の問いかけに、宏太朗は仕方ないじゃないかという顔をする。
「そんな風に書いてあったら、興味が抑えられっこないよ」
宏太朗の言葉で、彼が中へ入ってしまったのだと知った。普通、入るなと書いていたら入らないだろう! そう言いかけて、呑み込む。そうだ、宏太朗に興味や好奇心を抑えろという方が普通じゃなかった。
宏太朗は続ける。
「……貼り紙のしてあった表から入ったら、店主が出てきてさ。僕に言うんだよ。字が読めないのか! って。それでねぇ……店へ入った僕に、タダ働きをさせるんだ。びっくりするほど人使いが荒いんだよ」
人使いが荒いと言いつつ、彼は彼なりにそれを楽しんでいるのか、あまり嫌そうではない。事件に首を突っ込んでいるわけでもなさそうだし、あんなに心配することはなかったんだ。心配して損をしたとは思わないし、別に呆れもしない。だけど、ちょっとばかし腹が立つ。
「それはきみが悪い」
僕がぶっきらぼうに言えば、宏太朗は「あれ、心配してくれていたんじゃないのかい」とわかりきったことを訊いてくる。ずるい男だ。
「二度としてやるもんか」と言う僕に、「怒らないでよ、たいちゃん」と宏太朗がしおらしい声を出す。わかってるぞ、これは芝居だ。性格上、こういう声を出されると弱い僕だが、ここは毅然とした態度で振舞うべきだ。目の前の宏太朗を少し睨む。でも宏太朗の視線は既に僕に向いていなくて、台所の方を見ている。韮粥を見ているらしい。
「たいちゃん、あの鍋はなぁに」
きっと、僕が鍋を台所に置いた瞬間から気がついていたのだ。
「韮粥さ」と一言だけ返すと、「わあ」と宏太朗が嬉しそうに笑う。このぼろアパートに住むくらいなのだから、宏太朗は決して金に余裕がある方ではない。まあ、この容姿と愛嬌のある性格なので、食べ物には困っていないようだけど……。僕は溜め息を呑み込んだ。
「たぁーっぷりあるんでね。ぜーったい残さず食べるんだぞ」
嫌味っぽく言ったつもりが、「やっぱり、たいちゃんはお人よしだなあ」と笑われた。まったく、どうして嫌味のひとつもちゃんと言えないんだろう。僕は 一緒に食べるつもりで持ってきた韮粥と宏太朗に背を向けて、ぼろアパートをあとにした。
……次の日、宏太朗は僕の住む屋敷に顔を出した。蔵へ向かおうとしていた僕を、呼び止めたのだ。鍋を返しにきたのだろうか? 手元には持っていないみたいだけれど……。ただ、こけかけていた頬は元来の中性的な膨らみをわずかに取り戻しつつあるようだ。
「宏太朗。少しは戻ったみたいだね」
僕がその顔を観察しつつ言うと、「たいちゃんのおかげさ」と宏太朗が笑う。僕じゃなくって、母さんの韮粥のおかげなんだろうけど。そうは思っても、口には出さなかった。感謝されたことが嬉しかったからだ。
「ふうん。よかったじゃないか」と、ちょっとにやけそうになった口元を誤魔化すように歪めてみる。きっと他人が見たらすごくおかしな表情になっているだろうけど、宏太朗なら何も言わずにいてくれるはずだ。
「たいちゃん」
不意に、真面目な声が僕を呼んだ。
「僕を見て、なにが見える?」
突然の妙な問いかけに、僕は薄気味悪さを感じた。まるで、僕に宏太朗以外の何かが見えているみたいだったから――。
「宏太朗は宏太朗にしか見えないよ。何を言い出すんだよ」
僕が眉根を寄せると、「そう……」と宏太朗は黙ってしまった。何かを深く考えているようだった。心配で、「宏太朗?」と声をかければ、宏太朗はにこりと笑んだ。
「ごめん。そろそろ行かなくちゃ」
「大学かい? まさか、まだ例の書店でタダ働きしているんじゃあ……」
まさかとは思うけど……。僕が見つめる。
「平気さ」
そう言って、宏太朗はまた笑った。その日から、宏太朗は姿を消した――。
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