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第八話:憂えた笑顔
「二人とも、ばかじゃないの!」
瓦礫や本の中から助け出された僕と宏太朗は、辺りに人だかりができている中で未散さんにこっぴどく叱られながら、埃まみれになったお互いの顔を見て、安心したのと何だか可笑しいのとで少し笑った。この人だかりは、宏太朗の叫び声が聞こえたことで、未散さんが助けを呼びに行ってくれたかららしい。不思議なことに、僕と宏太朗はほとんど無傷だった。
空はもう真っ暗だ。とりあえず、未散さんを早く帰そう。僕と宏太朗の意見を、未散さんはちょっとだけ不満そうに聞いていたけれど、「おばさまには、太市朗が埃まみれで帰ってもあまり叱られないように話しておくわ」と言ってくれた。「あまり」という言葉がちょっと気になったけど、それは未散さんなりの優しさだよと宏太朗は言う。鈍い僕は相変わらずだ。
久々に、宏太朗と二人になった。この時間では馴染みの喫茶店も閉まっているので、宏太朗のアパートで、事の経緯を聞くことにした。
宏太朗は、欠けた湯呑に注いだ茶を僕に勧めながら、すまなそうに眉を下げる。
「ごめん、たいちゃん。巻き込んでしまって、本当にごめん」
別に、今回に限っては、巻き込まれたつもりはない。だけども、宏太朗に何かあったのではと考える時間は、まるで生きた心地がしなかった。宏太朗にそれを伝えたら、調子に乗りそうだから言わないでおくけれど。
「何をやっていたんだよ、どうしてあんなところに?」
勧められた湯呑を手で引き寄せながら、膝を崩して座る僕が問う。宏太朗はひとつ頷き、目を伏せて語った。
「ちゃんと、話さなきゃね……」
いつからか宏太朗は、大学の帰りにあの古い書店の二階から視線を感じるようになったらしく、数回ほどはあの女の子と目が合ったそうだ。彼はそういうたちなので、気になったら即行動に移す。だから、入るべからずと書いてあった貼り紙をしている書店の中へ入ってしまったという。宏太朗は最初、あの女の子が生きていると思って会話をしていたそうだが、だんだん違和感を覚え始めたらしい。
「よく考えてみれば、あの子の話す『お父さん』とやらが、どこにも見当たらないんだ。違和感は、何となくあったんだ。あの子は僕以外と関わろうとしないし、たいちゃんを連れてくるよって言ったら、ひどく錯乱するんだ。あの子を宥める一方で、僕は調べ始めた。そしたら――あの書店にはもう人は住んでいないし、ここに住んでいた人たちはもうこの世にいないって」
更に宏太朗は語った。タダ働きと話していたのは、僕に心配をかけないように嘘を吐いていたからで、実際は女の子の話に遅くまで……それも、ほとんど飲まず食わずで付き合っていたからだと。
きっと、宏太朗は女の子を放っておけなかったのだ。それは彼が女好きだからというわけじゃなくって、優しさや同情もあったのだと思う。
あの女の子は脚が悪く、外には出られないと話していたとのことだった。あのとき――僕が浮遊しながら見ていたのは、どうやら宏太朗の記憶だったらしい。しかし、僕には初めから、あの女の子が透けているように見えていた。だから、宏太朗の言葉にはわずかな違和感があった。
「でも、あの女の子は透けていたし、最初からわかりそうじゃないか」
普通のことを言ったつもりだった。だけど――宏太朗の反応は意外なものだった。
「透けて……? いいや、たいちゃん。僕にはしっかりとした人間に見えていたよ。だから、事実を確かめるためにあそこへ行ったのさ。名乗り忘れていただけの名前も、敢えて教えていなかった。違和感に気づいたから、何だか、危ない予感がしたからね」
まっすぐ僕の目を見据える宏太朗の目は、今回は嘘を吐いていない。じゃあ、どうして僕には透けて……? 今になって、背筋が冷たくなる。そういえば、宏太朗が姿を消した日に僕と交わした会話の中で、彼はこんな風に訊いてきていた気がする。
――僕を見て、なにが見える?
宏太朗はあのとき、自分に何かが憑いていないか確かめたかったのかもしれない。しかし、僕には見えなかった。となると、あの女の子はやっぱりあの建物の中から出ていなかったということなのだろう。
世話や迷惑をかけてしまった未散さんには、本当のことを話すことにした。信じてはもらえないかもしれないねと宏太朗と話していたけれど、僕の住む屋敷で、未散さんはこんな話を教えてくれた。
「わたし、聞いたの。四丁目にある、とある店の店主は、病弱な娘を想うあまりに外の世界を教えず、ほとんど人と関わらせなかったって。最後まで、二人だけで生きたって」
僕の頭には、最後に聞いたあの女の子が啜り泣く声がこだましていた。
――お父さんの言う通りにすればよかった知らない人とは、もう関わらない……二度と……。
もしかすると、あの子は――外の世界を知らぬままこの世を去った未練を、宏太朗に晴らしてほしかったのかもしれない。だけど最後は……。
どこか憂えた表情の宏太朗が心配で声をかけようとすると、彼は笑った。
「ねえ、二人とも。僕、今日は韮粥を持ってきてるんだよ。三週間前、たいちゃんが持ってきてくれたやつ、さすがにひとりじゃ食べきれなくてねぇ」
「えっ。三週間前って、絶対腐ってるわ!」
未散さんが逃げていくのを見て、宏太朗は笑っている。無理やり明るく、笑っていた。
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