在りし日の彼女と温泉宿

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「ふぅ……」  青年は深くため息をつき、目の前の建物を見上げた。先日急逝した彼女とよく訪れた、古き良き風情の、温泉宿である。しかしその彼女はもう、いない。元々温泉などという趣味はなかった彼が、たった一人でここに来るのは、もちろん始めてのことで、何をしに来たのかというと、……なんのことはない、いまだ忘れることのできぬ彼女の面影を追ってやってきたにすぎない。決して、風呂に入りたくてきたのではないのである。 ここに立っていると、いつも楽しそうにしていた彼女の姿が、目に浮かぶ。いい歳をして、子どもみたいに無邪気にはしゃぐ。やたら声や動作が大きくなったり、つまらぬ冗談に馬鹿笑いしたり、本当に見ていて恥ずかしいくらいではあったが、……そんなところも、彼にはかえって好ましい美点の一つであった。  そんなことを思い返しながらレジに向かうと、レジ前に立つ綺麗な仲居さんが、 「いらっしゃいませ、何名様でございますか?」  と、気品よく尋ねてくる。これに彼は、一瞬無言になり、そしてハッと、気がついた。 「あ……、ひとり、です」 「承知いたしました。一名様ですね。日帰りのご入浴でございますか?」 「はい。日帰りでいいです」 「それでは、こちらが靴のロッカーの鍵になりまして……」  いつもここで、「はい! 二人で、日帰りです!」と快活に話すのは、彼女の役目になっていて、彼はただ、その後ろに突っ立っているだけだった自分の姿を思い出した。  受け取った鍵で靴箱を開けながら、これからはそんなことも自分でしなければならないという事実に、彼の心は乱れ、その乱心を引きずりながら館内を歩き、男湯と女湯の別れ道で、暫時足を止めた。  彼女はここでいつも、入浴前には「じゃあ、1時間後ね!」と手を振って女湯へと消えていき、風呂から上がって再開した際には、決まって、 「はあ~、さっぱりしたぁ!」 と、はじけるような笑顔で言う。そのなんとも心の底から出たような、あたりを憚らぬ快活な声が、恥ずかしいからやめてくれ、と口では言いながらも、気持ちよさそうにしている彼女の姿が、彼は大好きであった。しかしそこにはもう、誰もいない。けれど彼には、一瞬、いつものように女湯の暖簾をかき上げながら、こちらに笑いかける幻影が見えた気がして、思わず軽く手を上げた。  服を脱ぎ、ガラガラと少し開けにくい引き戸を強引に開けると、室内はもくもくと上がる温泉の湯気で真っ白であった。湯舟では、ふやけた老人や、やたらといかめしそうに湯に浸かる中年男、大学生かと思われるほど若々しく見える美麗な父親と、その腕に抱かれる幼子など、すでにたくさんの人で賑わっている。皆それぞれ、抱えているものや表情は違えど、一様に日頃の疲れを取りに来て、現在デトックスされているのが、一目見るだけで窺い知れた。 そんな癒しの空間に、彼も浸ってみると、確かに鬱屈でできた心のしこりが、ほどけるように溶けていくのを感じる。周りの客人と同様に、表情も緩んできて、思わず口まで沈み込みそうになるが、そのしこりが溶けきる前に、ぼんやり頭上を見上げ、ゆっくりと立ち上る湯気を目で追うと、その先で、雲が人の顔に見える、みたいな要領で、生気にあふれたあの頃の彼女の顔が浮かび、 「わ!」  と、危うく叫びそうになって、勢いよく立ち上がってしまった。彼は、溶けてなくなりそうになっていたそのしこりが再び凝固したのを感じながら、訝しそうな目で彼を見つめる周りの人に軽く会釈などして、逃げるように露天の方へと向かった。  露天では、あえて風呂には浸からず、「寝湯」でしばらく寝転ぶことにした。石のパーテーションで区画されたそのスペースに、絨毯のように敷かれた、膜のような温泉水に仰向けで身をゆだね、肌を優しく撫ぜるようにたゆたう心地の良い感覚に、彼は意識が遠のくのを感じた。目をぼんやり開ければ、上空には真っ青な空と、ところどころに点在するふわふわした雲。身体の方は、温かい気温に上半身をコーティングされ、そこに吹くのんびりとした涼風が心地いい。絶好の温泉日和ともいえるこんな日に、なぜひとりでいなければならないのか、そんな鬱屈した考えが、遠のく意識とごちゃ混ぜになって、気がつけば、彼の視界は真っ暗になっていた。  耳元で、こんな会話が聞こえてくる。 (絶対面白いよ、あなた才能あるって! 自信持ちなよ) (いやいや、こんなん誰でもできるって。時間さえかければ、こんなの……) (そこがすごいんじゃん。やりたいことに時間をかけられる、コツコツ努力できるって。あなたに足りないのは前向きさと、あと自分への自信だよ) (そんなこと言われてもなあ。まあでも、君がそう言ってくれるのなら、もう少し頑張ってみようかな。……また、見てくれる?) (もちろん! 私はあなたの夢を、誰が何と言おうと、絶対応援してる) (ははは、おおげさだなあ、ほんとに君は……)  そこでハッと、目が開いた。さっきまでいた雲たちは、もうどこにもおらず、カンカンの太陽と青空だけが彼の目の前にあった。太陽が直接、光の雨を降らすので、彼は思わず目をつぶったら、頬に冷たいものが流れた。あれ? と自分でも不思議に思ったが、どんどん流れてくるので、身を起こし、立ち上がると、なぜか少し肩が軽くなっている気がして、ふらふらと、どこか酔っ払いの千鳥足みたいになって、そのまま浴場を後にした。  服を着ると、自然と涙も止まった。泣いたことも忘れるくらい、ケロッとした気分になり、さっきのはなんだったんだ? と自嘲するみたいに自分に問うても、特段何の答えも出ず、もう考えるのはよそうと、男湯の暖簾をくぐった。、目の前の自販機で牛乳を買って、一息にゴクッと飲むと、風呂上りの身体に心まで洗浄されるような清涼感が、 「ぷはぁ~」  という言葉となって口からこぼれた。 (なぜか今日は、妙に気分がいい)  そんなことを思いながら、あとわずかとなった牛乳を、ビンの尻を叩きながら最後の一滴まで飲んでいると、ちょうどその背後となる女湯から、公共の場とは思えぬ周囲を顧みぬレベルの音量の、純粋で、一点の曇りもない心底からの嬉声が、彼の耳をつんざいた。 「はあ~、さっぱりしたぁ!」  思わず振り返る際に手に持つビンを落としたが、そんなことは意識の外で、その朱色に染まる「女湯」の暖簾の奥に彼の視界は惹きつけられた。が、そこから出てきたのは、もちろん見ず知らずの若い女性たちで、キャッキャと楽しそうに湯の気持ちよさについて語っているが、彼女たちを凝視する彼の姿に気づくと、気味悪そうに、少し自分の身体を隠すような素振りをして、横目で見てながら通り過ぎた。  彼はその女性たちが、壁で見切れるまでその姿を目で追っていたが、見切れて、視界から完全に外れてしまうと、どういうわけか、腹の底から無性に笑いが込み上げてきて、抑えようにも歯止めが利かず、我を忘れてクスクス笑いながら涙目になって、床に転がる空きビンを拾い上げるのにさえ、いつまでもいつまでも、時間がかかった。
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