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今日もディナーのお誘い。
自分には場違いな場所だと正直認識しているつもりだ。
だが新しい自分に合わせるために様々なことを学んだつもりだし、最近は少し様になってきたつもりだが、どうだろうか。
周りの人から見れば影でセセラ笑われていても仕方がないと思うが、まぁそんなことは自分の人生にはいつもつきものだし、そのうち笑われないようにすればいいだけの話だ。
いよいよ自分も玉の輿ってやつに乗ることになるみたいだし、何しろキーマンであるうちの重役が、あ、これからお義父さんになる人だけど、自分を認めてくれてるんだから、まぁいいんじゃないかと思う。
彼女も僕のことを随分気に入ってくれてるみたいだし、それならそれで円満じゃないか、
そんな気がしていた。
これまでの人生でこんなにうまくいった事はなかった。
子供の頃から何をやったってうまくいかなかったし、努力したって報われた事はない。
この会社に入った頃だって散々上司にはいじめられたし、先輩にもパシリのような扱いばかり受けていたし、女子社員にだってあまり相手にされなかった、あ、一人を除いてだけど。
でもそんな人生に千載一遇のように降って湧いたチャンスが今、目の前にやって来ているわけで、それに乗らないというのは…
そんな奴はいない気がした。
まずこのチャンスを逃したら自分の人生にはもう何もいい事なんか無いような気がしていたし、そもそも自分で何かをしてこういうことになったわけじゃない。
これが自分の良い運命だったんだと思えば、それでいいんじゃないかという気がした。
人間、そうやってみんな出世してきたんだと思う。
そもそも今度お義父さんになる重役だって、確か社長の娘だか姪だかと結婚して今の地位に就いたんじゃなかったっけ。
そもそもうちの今の社長自体が創業者の娘と結婚して平社員からどんどん出世して社長まで上り詰めた人間なんだから、社会で出世する奴には実はそういうタイプが結構いるわけだ。
むしろオーソドックスなスタイルと言っていい。
自分もそのオーソドックスに通過儀礼的に従うだけだ。
まるで何かのマニュアルに従うように、最近はいかにも重役の娘婿にふさわしい思われる行動を無理して取っているが、こんなのは就職する時に様々なマニュアル本を読んでその通りに演じてなんとか就職したのに比べたら大したパフォーマンスでも何でもない。
その程度のことならこれまで社会で生きてきて、ある程度経験してきたことだし、今更どうということもない。
仕事が終わって、高級フレンチのディナーを彼女と一緒に取るために外に出た。
雨が降っていた。
たぶんディナーの席で結婚式の日取りだとか、新婚旅行で行く海外の話などを今日はすることになるだろう。
僕は傘はないが、小雨だったからそのまま歩き始めた。
フランス料理店までタクシーで行こうかと思ったが、それほどの距離でもないので、このまま歩くことにした。
その時ふと、通りに見慣れたカフェが目に入った。
そんなにお客さんがいる風でもなかったが灯がついていて、中の様子がガラス窓から見えた。
ただその入り口の扉を見た時、そこに何か貼り紙がしてあった。
来週に閉店すると書かれていた。
このカフェにはよく来た思い出がある。
そうか、ここ閉店するのか…
なんとなくこの店によく立ち寄った時のことを思い出した。
愉しき思い出
心地良い思い出が色々あったような気がする。
まあなんとなく憶えている。
ここが無くなるってことは、その思い出も消えてしまうような気がして、時計を見たらまだ時間が少しあったので、そのカフェに立ち寄ることにした。
中に入ると、すぐにきちんとしたアメリカンでレトロなメイド服を着た店員が注文を取りに寄ってきたので、いつものようにカプチーノを頼んだ。
ここでいつもカプチーノを飲んだ。
でももうこれが最後になるだろう。
そう思いながら噛みしめるようにカプチーノを飲んだ。
店の装いにもなんとなく愛着がある。
この店にいた時、いつも思っていたのは、どうやったら幸せに生きていけるかということだった。
別にここで名物のタルトタタンを食べればそれで幸せだった。
それでいいじゃないかと思った。
最初のうちは。
でもタルトタタンはさすが名物だけあって限りなく美味しいけど、ただそれだけだったんだろうか?という気がした。
そう思いながら、すぐに店員にタルトタタンを注文した。
しばらくして目の前でリンゴの風味豊かなタルトタタンが届けられたが、食べてみたらやっぱりいつものようにとても美味しかった。
十分幸せな気分になれた。
それでいいじゃないかと思った。
自分には有り余る幸せだ。
そう思った。
でも…
前にここで同じようにタルトタタンを食べた時に感じていた幸せとはちょっと違うような気がした。
あの時は一人で食べていたわけじゃないから。
そうか、そういうことか、
と思い出した。
あの時、確かに幸せになりたいと思っていた。
でもそれはそのうち、目の前の人を幸せにすることこそが幸せなことなんだと気がついた。
思えばタルトタタンを最初は自分で注文したわけじゃなかった。
これが美味しいと言う人がいて、自分も一緒に注文しただけだった。
それで食べてみたらとても美味しかった。
それで幸せな気持ちになった…
いや違う。
その時にそれがいかに美味しいかをずっと話してくれる人が目の前にいたのだ。
その話がとても楽しかったし、なんだかとても幸せだった。
この人とずっとタルトタタンを一緒に食べていられれば、それが一番幸せなんじゃないかと思った。
いや違う…
最初はそうだったんだが、だんだんこの人がずっとタルトタタンを食べて幸せを感じてくれている日々を送ってもらえるようにすることこそが、自分の幸せだと思うようになったんだった…
思い出した。
今自分は一人ぼっちでタルトタタンを食べている。
それでも十分に美味しい。
幸せを噛みしめることができた。
だけど自分が求めていた幸せはこれじゃなかった。
それははっきりとわかる。
僕は目の前の人がいかにこのタルトタタンが美味いかを語っている時の顔が好きだったし、一緒にこのタルトタタンを食べられる時間が好きだった。
それにその人がタルトタタンを食べて幸せな気持ちになる時間をずっと作りたいと思うことが一番幸せだった…。
そうか…
そういうことだよな、と思った。
カプチーノを飲み干し、タルトタタンを食べて店の外に出ると、雨はまだ降っていた。
雨ね…
雨ぐらいなんだ…
自分は昔からロクなことがなかったし、雨ぐらい降っていたってフラフラ歩いて生きてきたじゃないか。
そう、自分とまるで同じことを言う人に出会って、益々そんな気になったものだった。
そのまま待ち合わせした高級フレンチの店に行った。
それから1時間ぐらいして、僕は雨が降る中、またまだ店を閉めずにやっていた、あのカフェに入った。
カプチーノをまた注文して美味しく飲んだ。
しばらくして、店のドアが開いて、客が一人、店に入ってきた。
目の前にその人が座った。
「何?カプチーノだけ?タルトタタンは頼まないの?」
「ああ。一緒に食べようと思って…。待ってたんだ」
「あ、そう」
そう言うと彼女は、すぐに店員にタルトタタンを二人分頼んでこっちを見た。
「何?幸せそうな顔して?」
彼女はそう言った。
「まぁ、幸せだから」
「そう。それはよかったわ」
「だって、こうして久しぶりに二人で一緒にタルトタタンをまた食べられるんだから。これ以上幸せなことはないよ」
「え?」
「だから君が大好きなタルトタタンをまたここで一緒に食べられるんだから。もうこの店もなくなってしまうけど、こんな機会はもうこれが最後なんだけど、その最後に二人でまた一緒に来られてよかったよ」
「そうね。でも…。あなたはまず…自分の幸せを考えるべきだわ」
「うん、ここでさっき実は先にタルトタタンを一人で食べたんだ。食べながら考えた結果、本当の自分の幸せを考えることができたよ」
「…。何よ、それ…」
「ここで一緒に、もうタルトタタンを食べることは出来ないけど、また君の作ったタルトタタンを食べさせてくれよ。実は僕も自分で作ったことがあるんだけど、どうも難しくてね。タルト部分の焼き加減がすごく難しいんだよ。前に君の作ったやつを食べたけど、そこがすごくうまくいってた」
「タルトの焼き加減には自信があるから。あなたに、美味しく、食べてもらいたかったから。何度も作り直したから…」
「そう…。また食べたいな」
「うん…」
「重役からの縁談を断った以上、しばらくは就職活動とか大変だと思うけど、まあやまない雨はないと思うしさ、あ、"雨が降るなら好きなだけ降ればいい"
だったっけ?君の口癖…」
外に出ると、まだ雨が降っていた。
ひたすらそぼふる雨。
雨が降るなら好きなだけ降ればいい。
これまでだって土砂降りの中、傘もささずに生きてきたようなところがあるし、今だってこのぐらいのこぬか雨なら傘もささずに歩いていける。
僕も彼女もなんだか泣いていたけど、その涙も、そぼ降る雨が全て隠してくれるだろう。
雨にはそういう優しいところがある。
今日はこのまま濡れて帰ることにしよう。
それが僕たちには一番似つかわしいことのように思えた。
(終)
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