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僕を百回ビンタしてくれ。
彼が言って、私は胸の奥がぎしりと軋む音を確かに聞いた。
「どエムなの?」
訊ねてみると彼はコーヒーで僅かに湿った唇の端で少しだけ笑って、「違う」と俯いた。一重まぶたの先っぽに付いたまつげが揺れている。短くて、目尻だけがやけに濃いまつげ。
「知ってる」
私は呟くみたいに言葉を投げ捨てて、右手を持ち上げた。暴力で解決するなんてよくないよ。まるで殴られる側のようなことをぼんやり思って、ゆっくりと瞬きをする。
ぬるい空気が、よく手入れした指先に纏わり付く。付けたばかりの暖房がワンルームを中途半端に暖めていた。
ぺちん。
間の抜けた音が鳴る。私は手のひらの乾いた感触と、まるでなんの変化も無い彼の頬を眺める自分の目が、まるで別々の人間のものに感じられた。
小さなテーブルを挟んで向かい合わせに座って、私は少しだけ前に乗り出して。一体何をしているんだろう。
テーブルの上で二つのコーヒーが湯気を立てている。私はブラック、彼は砂糖無しでミルクを少し。こうなってみると、彼好みのコーヒーをせっせとこしらえた数分前の自分が健気で泣けてくる。コーヒーなんて入れるんじゃなかった。せめてこれを飲み終わるくらいまで、待てなかったのだろうか。なんてせっかちな人なの。
私は何度も何度も腕を振った。正確には手首をちょっと動かしている程度だけど。
実家から持ってきた電気ヒーターは、耳慣れた鈍い音を立てている。四畳で三千九百八十円の安いラグは、一ヶ月前に溢してしまったトマトジュースのせいで赤い汚れが染みついている。白になんかしなければよかった。キッチンからは遅い昼食で食べたやきそばの匂いがするし、窓際にはタオルが干してある。自分の部屋ながら、なんて格好が付かない部屋なんだろう。こんな時なのに。
なんだか少し気が乗ってきた私は、段々と力を強めていった。それにあわせて音も大きくなって、手のひらもじんじんし始める。
そうだ冷静に考えれば、そもそも彼が抜き打ちでやってきて、抜き打ちでこんな話をし始めたんだ。知っていれば、完璧な空間で迎え撃ったのに。酷い人だ。
「あの」
ビンタの合間を縫って、彼は口を開いた。
「百回とも左はちょっと」
「なにそれ、イエスキリスト?」
「なんで?」
手を止めて私が眉根を寄せると、彼は目をぱちぱちさせた。深爪気味の丸っこい指で、私に叩かれ続けた左頬を撫でている。その仕草が無性に癪に障って、私は馬鹿にした声を作って肩を竦めた。
「頬を殴られたらもう片方の頬を差し出したから」
しばしの沈黙。ヒーターが立てる音と、私たちの呼吸の音だけが聞こえる。
三回大きく息を吐いた後で、彼は「違うよ」と言った。私は「知ってる」と左手を上げる。
「どっちの頬をどのくらい殴るかは、自然な成り行きにまかせよう」
真剣な声色と真剣な眼差しを私が向けると、彼は唇を噛んだようだった。少しだけ、笑えた。
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