自然な成り行きに

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私はふと手を止めた。孝一の頬が赤く染まっている。指先でそっと撫でてみると、彼は怪訝そうに私の表情を伺った。あ、その顔、嫌いじゃないや。  自然な成り行きに。  私と別れるのも、彼にとって自然な成り行きなのだろうか。自然って、なんなの。最後に教えてよ。  私は全部を嚥下して、一言「お幸せに」と言った。すると、されるがままだった孝一が唐突に私を睨む。その忌々しげな視線に、私は驚いて身が竦んでしまった。何で私が、睨まれなきゃならないの。 「どうでもいいのかよ」  彼は憮然として声色に苛立ちを混ぜ込んだ。 「どうでもいいなんて言ってないじゃない」  一体なんだというのだろう。私は今、彼に浮気を打ち明けられたばかりの筈なのに、どうして怒られているんだ。 「何も訊かずにビンタしただろ」 「聞いたじゃん、どエムなのかって」 「そんなことじゃない」  孝一はカップの中のコーヒーに視線を落とした。彼が言いたいことは、何となくわかる。私が別れ話をあっさりと受け入れたことが、気に入らないのだ。きっと。  私は彼の真似をして、もうほとんど入っていないカップの中の黒色を見つめた。黒いマグカップの中の黒いコーヒーは、底なし沼みたいに私の心を吸い込んでゆく。 「だってじゃあ、どうしろっていうの」  震えてしまった私の声を聞いて、彼が面を上げる気配がした。 「泣いて縋れって言うの。私がそんな事、出来る女だとでも思ってるの。ただでさえ惨めなのに、もっと惨めになれっていうの。出来ない。私には出来ない。一度負けたら、もうなにも、したくない。一年近くも付き合ったのに、それくらいもわかんない?」  私は頑張ったんだ。この体型を維持するのに、どれくらい努力してると思う? この肌のために、毎朝毎晩、どれだけ時間を掛けてると思う? このヘアメイクに、いくら掛かってるか分かる? 今の職業に就くためにどれだけ勉強したか、いい人であるためにどれくらい我慢したのか、貴方に、想像出来るっていうの。聞き分けが良いって、良い事じゃなかったの?  お姉ちゃんはしっかり者で良かったって、言ってたのに。自分の事を自分で出来ると、偉いって褒められたのに。我慢して弟に譲ったら、良い子だって言われたのに。なのになんで、今更になって、可愛げがないなんて言葉に変わるんだろう。  どうでもよくなんかない。どうでもいい訳がない。でも私は結局自分が可愛くて、孝一を失うことよりも、自分が今まで抱えてきたものを捨てる方がただただ怖い。諦める方が、よっぽど楽だから。 「私より、その人の方がいいんでしょ。なら、仕方ないよ。私よりその人と居た方が孝一は幸せなら、それでいい」 「本気で言ってる?」 「知るかよ」  吐き捨てて、私は顔を上げた。 「知るかよってなんだよ」 「私すごく頑張ったつもりなんだけど」  面倒な事も、嫌な事も、全部我慢して尽くしたつもり。何度言っても靴を揃えて脱がないところとか、聞いてないのに生返事をするところとか、中身の残っているペットボトルを冷蔵庫に戻さないところとか、ああもうどうして、こんな下らないことしか出てこないんだろう。  どんなに疲れていたって、私は彼を精一杯にもてなした。料理も家事もメールの返信だってマメにしたし、いつだって完璧な彼女でいようとした。  すっかり口を閉ざしてしまったけれど、そういう所に疲れたんだと孝一の目は言っている気がした。じゃあ私が疲れない女なら、浮気しなかったってこと? ならそのなんとかさんって女との愛情とやらも、下らないね。だって愛が芽生えたんじゃなくて、疲れたからその女に逃げたって事じゃない。  私はありったけの感情を視線に込めた。やっぱり、百回ビンタなんて受け入れなければよかった。叩く度に自分の立ち位置が不安定になってゆくから。  息苦しい。この世の中は生きづらい。  本当は知ってたのだ。彼を追い詰めたのは私だ。  必死でいい彼女を演じる私を、彼はいつも気遣ってくれた。仕事柄ストレスを溜め込みやすい私の話を根気よく聞いて、私をよく褒めてくれた。なのに私は、少しずつ様子がおかしくなっていた孝一に、何も聞かずにただ無言で責め続けたのだ。美味しいご飯を作ったり、彼の部屋を掃除したり、いいコーヒーを振る舞ったりすることで。  目の前に居る孝一の顔がぼやけて、私はワンルームが現実味を失った気がした。  長い沈黙。私の意識は夢の中にいるようにふわふわしていた。 「弟がさ」 「――え?」  頓狂な声を上げる孝一から私はラグの染みに目線を映した。うっすらと残ったその赤色は何度拭いたって消えやしなかったけれど、マグカップの中のコーヒーを溢せばきっと黒くなって、しばらくすれば赤色の事なんて忘れる。染みとはいえ、すっかり生活の一部に馴染んでいるのに。取れなくったって、濃い色で塗りつぶせばそれで。 「結婚するんだって」 「あ、ああ。おめでとう」  そうだねおめでたいね。私は心の中で呟いた。  これじゃあ私が、どうしようもなく嫌な奴みたいだ。  孝一を浮気したくなるくらいに疲れさせて、別れ話でさえ期待された反応が出来ず、百回もビンタをして、弟の結婚も素直に祝えない。なんて情の薄い人なんだろう。  喉の奥から、コーヒーの苦い香りが上がってくる気がした。 「結婚、したかったの?」 「……弟と同じこと、聞かないでよ」  私はすっと息を吸ってまた手のひらを振りかぶった。  正式な婚約が済んだ秋口に行われた両家顔合わせの会食の席で、母は私に「朱里もはやく結婚出来たらいいねえ」と笑った。その言葉に頷いた私に弟は心底意外そうに言ったのだ。 「朱里って結婚したかったんだ?」  すると呆気に取られて何も言えない私をどう思ったのか、斜め前に座っている可愛い婚約者が弟に目配せをした。弟はそれを受けて妙にこざっぱりした髪を掻き、更に追い打ちを掛けたのだ。 「結婚とか、興味なさそうだったから」  私は何も言い返せずにただ苦笑いをした。あの時は聞けなかったけれど、ねえそれは、私が一人で生きていきそうだと思ってたってこと?  ごめん、という形に動いた孝一の唇を塞ぐような気持ちで、私は彼の顔をひっぱたく。私が結婚したかったら、結婚してくれたの? 浮気せずに。  目の合わない彼と向かい合っていると、馬鹿げたことを考えて悔しくなる。そんな事、ないと分かっているのに。  ぱちん。  これで九十九回目。  最後の一撃を繰り出そうとして私は右手が震えるのを抑えた。鼓動が五月蠅くて吐息が熱い。せめて彼の記憶に残る私が綺麗であって欲しい気がして、その手で前髪を整える。  瞬間、けたたましい着信ベルの音が鳴り響いた。私の右手はぴたりと止まって、孝一と視線が交差する。 「出たら?」  私はマグカップを持ち上げて、コーヒーを飲み干した。ばつの悪そうな孝一が戸惑っている。出なよ、別れ話の間でさえマナーモードにもしない携帯電話なんでしょう。  マナーモードにされたらそれはそれで苛立つ癖に棚に上げて、そっと嘆息した。  ベルの音は鳴り止まない。それどころか、どんどん大きくなっていくようで私はコーヒーが不味くなる。 「出るか、切るかどっちかにして」  声を低くすると孝一はズボンのポケットから携帯電話を取り出した。ぴかぴか光る画面を見やって、顔を顰めたのち嫌に子どもっぽい目つきで私の顔色を伺う。私はその反応で理解してしまった。  この人たちは、私という人間を舐めすぎているのではないか。 「出なよ。例のコーハイなんでしょ、相手」  ベルはやっぱり鳴り止まなくて、彼は私から発される圧力に耐えかねたのか通話ボタンを押した。そっぽを向いて携帯電話を耳に当てる。ひそひそと何度か頷いて、それからにわかに静かになる。と思うと、急に間抜けな声を出した。 「本気で言ってる?」  さっきも聞いた台詞だな。私は冷えた心で彼の青ざめていく様子を眺めた。  しばらくして、孝一は呆然と携帯電話を下ろした。部屋の空気が変わってしまうのを感じて私は、一体どんな表情を浮かべれば良いのか分からなくなる。 「……より、戻したって」  孝一は信じられない、と眉尻を下げた。最近合う回数が減っていたから、眉毛がすっかり伸びてしまっている。彼はあまりお洒落に関心が無いらしく、私が眉を整えてあげていた。 「なに、これもしかしてタチの悪いドッキリ?」  私が言うと彼は唇を噛んだ。その面持ちがあんまりにも泣き出しそうで、私は笑ってしまった。 「コーハイさん、元彼とやり直すんだ」 「そうらしい」 「孝一は私と別れるのにね」  どうするんだろう、この人。私はついほんの少し前まで私と別れるためにビンタまでされていた彼を想って、また笑いがこみ上げた。  胃が痙攣しているみたいに笑い続けて、笑いすぎて涙がにじむ。なんて見事なタイミングなんだろう。奇跡だよ。持ってるなあ孝一くん。  私は身を乗り出して、左手で彼の頭を固定した。最後の一発をお見舞いすると、頬が潰れて酷く不細工な顔になる。可笑しくてたまらない。  また笑うと、腕にぶつかって彼のマグカップが倒れた。中に残っていたコーヒーが流れて、テーブルからこぼれ落ちる。ラグの白色を焦げ茶色が浸食した。ああ私ってほんと、ほっとけないなあ。  私は慌てて立ち上がり、キッチンに台ふきを取りにゆく。急いで拭くけれど、当然ながら色が薄くなるだけで取れそうもない。あーあ。呟いて孝一を見ると、彼は未だに唖然としたまま。  さてこれから、どうしようか。  別れたばかりの私たちがこれからどうなるのかは、自然な成り行きに任せるしかない。憎たらしかったはずの口癖に一人で頷いて、私は新しいラグを買いに行く算段を立てることにした。
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