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その夜は、しばらく他愛もない会話を続けていたが、気づくと午前二時になっていた。
店を閉めて、店のあるビルを出て二人で歩道を歩いていると、絵里が急に立ち止まり、俺が振り返ると、彼女は真剣な表情を浮かべていた。
俺は少し不安になっていた。こういう時の彼女は、たいてい何か大事な話をするから。彼女は切迫感に似た緊張感を身に纏っているように見え、まるで今にも泣き出しそうな子供のように俺を見ていた。
俺はそんな彼女を前にして、何も言うことが出来なかった。
彼女はそのままゆっくりと近づいて来ると、俺の顔を見上げた。その目は涙で潤んでいた。そして次の瞬間、唇に柔らかいものが触れた。
ほんの数秒のことだったと思う。
唇を重ねた彼女と目が合うと、胸の奥が締めつけられるような感覚に襲われた。俺の腕に手を添えて、もう一度唇を重ねた後、彼女はそっと体を離した。
彼女は黙ったまま俯いていた。
俺はどんな顔をすればいいのかわからず、ただ立ち尽くしていた。しばらくしてから顔を上げた彼女の目は、まだ潤んだままだった。
俺たちは見つめ合った後、どちらからともなく抱き合い再び唇を重ねた。さっきよりも長く、深く。
それからどれくらい時間が経ったのか、長い抱擁の後、ようやく俺たちは互いの体を解放した。
その時、反対側の歩道から車道を横断する長身の男が視界に入った。その男は俺を見るとすぐに目をそらしたが、視界には入れている目の動きをしていた。
俺は男の後ろ姿を視界に入れながら、再び絵里へ目を向けると、彼女はもういつも通りに戻っていた。
絵里は俺に背を向け足早に歩いて行ってしまい、俺は慌ててその後を追った。そして、俺は覚悟を決めて絵里に伝えた。
『ねえ、絵里。待って』
『なに?』
『俺といたら、後悔するよ』
『それでもいいって言ったら?』
『一生離さない』
絵里のわずかに緩んだ頬を見て、俺の恋は、そこで終わった。
俺に与えられた仕事は、絵里と恋仲になることだったから。その日から、絵里の背後にいる輩を、絵里を通して探る日々が始まったから。
あの夜、俺の前に現れた男は松永敬志で、敬志の目の動きとハンドサインは『女の家に行け』だった。それはすでに吉原絵里の内偵は済んでいて、準備は完了したという意味だった。
絵里に伴われ、絵里のマンションに行くとマンションの内外には暗闇に溶け込んだ捜査員数名がいて、彼女の部屋の隣と、一階のエレベーターと非常階段に近い部屋には既に捜査員が常駐していた。
先代のママがこちらの人間だったから松永敦志はクラブに出入りしていた。だが新人の吉原絵里に不審な点があり、内偵すると、目的は敦志だと判明した。だがその後一度も敦志が来店しないことから絵里は俺を利用した。絵里を飼っている男は、過去の因縁から敦志を何度も襲撃していたが、絵里はハニートラップ要員として敦志と接触するよう指示を受けていた。
俺は何も知らされていなかった。絵里に惚れ込んで店に通っていたが、敦志からあくまでも雑談として絵里のことを問われ、俺は正直に答えていた。敦志からは『吉原絵里は問題ないよ。そろそろ再婚も視野に入れろよ』と言われていた。
全てが嘘だと知ったのは翌朝にマンションを出た後だった。俺は敦志にも絵里にも利用されていた。
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