確信犯

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確信犯

1  中野裕太(なかのゆうた)は、この世に生を受けてから、一念発起して取り組んだ物事が上手く いった試しが無かった。そりゃあ、明日のテストに向けてヤマを張って覚えた部分が的中しただとか、体育の時間に偶然自分の下に来たボールを蹴り、ゴールを決めただとか、本当に些細な成功体験は勿論あった。しかし、それは「成功」とは呼べないだろう。  何故か、裕太の身には自分が望む結果とは全く違う事が起きてしまうのだ。勿論原因はあるのかもしれない。そう思い、裕太は最大限の思考と努力に励んだこともあった。高校球児時代には、ホームランを打つぞ!と意気込み、自分のスイングをチームで一番打率の良い人間に改善してもらったり、気になる女子に振られた時は、その子の好みに近づくよう自分を 磨いた。大学受験に落ち、浪人する事になった時は志望校の傾向を徹底的に分析して、人一倍ならぬ「受験生一倍」勉強した。  しかし、野球では公式戦で放った念願のホームランが序盤に突然降り注いだ豪雨により試合が無効になった事で、記録自体が泡に帰してしまい、それ以降ヒットは打つものの、ホ ームランが全く出なくなって「技巧派」とチームメイトに皮肉られることになり、想い人に関しては、垢抜けても全く振り向かれなかったものの、それ以外の女子には多数好意を寄せられるようになってしまい、万全を期して一世一代で臨んだ受験に至っては、志望校に受か らず、塾の勧めでほぼ行く気のなかった記念受験の難関大学の学部に受かってしまい、自分が学びたかった分野でない勉強に付いていくのに苦労をした。  といった具合に、彼の場合はただ単に失敗するのではなく、彼自身も想像しない方向に結果がある、という表現が正しかった。そんな人生を彼は、幼少期から思春期、ひいては青年期の今に至っても繰り返してきた。そして、大学生として就職活動を本格的に迎えることになる21歳になって、彼は爆発した。  勿論、物理的な話では無い。何の予兆も無かった。しかし、大前提として今までの「不幸」とも、人によっては「幸運」とも呼べる出来事が起因していることは間違いなく、とにかく「何をやっても自分は思い通りにならないのだろうな」というどうにか押し隠そうとしてきた深層の気持ちが彼から「前向き」を奪った。その瞬間裕太は決意した。もう犯罪でもしてみるか、と。 2  今日は待ちに待った記念の日、絶好の犯罪日和である。日はかんかん照りで、空には雲一つない。「こんな日に罪をお前に犯せるのか?」と天が問いかけているようでもあった。 勿論、人に迷惑をかけることは普段の裕太からしたら進んでやりたい事では無かった。し かし、そんな他人への配意を忘れる程度にはこの二一年間の彼の苦悩は根深かった。  裕太は記念すべき一回目の犯罪を、食い逃げに決めた。スケールが陳腐すぎるとも思われたが、どんな事も最初は地道に小さなことから始めなければならない。素振りを怠る選手が ホームランを打つことが出来ない様に。勿論、犯罪は犯罪で、小さいも大きいも広義に捉えれば関係ないのだが。 早速おあつらえ向きの飲食店を探したところ牛丼屋が目に入り、裕太は入店した。特に意識はしていなかったが、食い逃げのイメージはいつだって牛丼屋である。  今日日牛丼屋はどこも食券式を採用していると思われたが、裕太が入った店は幸いにも オーダー式であり、食い逃げを成立させることが出来た。店内は昼時だったのでそれなりに 混雑しているが、場所が駅ビルや街中という訳でも無いので、あくまでそれなりに、と言った感じだ。そこそこの客入りにも関わらず、店員は二名ほどでオーダーと調理に会計をこなしている。食い逃げには絶好の環境とも言えたが、どうにも彼らが何かの代わりに世間の不況の煽りの矢面に立たされているようにも見えて、裕太は複雑な気分になった。 「お待たせしました」 入店してすぐオーダーした牛丼が程なくして運ばれてくる。裕太は食が元々太い訳ではないので、並盛だ。この並盛は価格にして三百八十円。この金額の為に自身の人生のキャリアを賭けるなど馬鹿も甚だしいと言えるが、犯罪をすること自体が目的の裕太にとってはあまり気にならなかった。  十分程かけて店内の様子を伺いながら完食し、水を飲むなり、爪楊枝を歯に差し込むなり して機会を待った。不幸にも出入り口近辺の席は埋まっていたので、店から入って少し右のテーブル席に裕太は座っていた。さて、どうしようか。テレビで見るような「お客様、会計はー!」だの、「食い逃げだー!」などと言われながら全力で走る人間を演じるつもりはない。あくまで、バレずに後にするつもりだ。店員が店頭から消えた瞬間を狙い、こっそりと出る。店の死角の道まで何食わぬ顔で行き、そこから急いでその場を後にする。脳内計画は 完璧だ。  しかし、店員は中々裏へと引っ込まない。列ができるほどではないものの、店内は依然として客入りが良かったので無理もなかった。あまり時間を引き延ばすと、怪しまれるかもしれない。最悪強硬手段も考えながら、裕太は策を練る。店内をもう一度見渡すと、入口からすぐ左にトイレがある事に気が付いた。  これだ。トイレに入り、用を足したと装って何食わ ぬ顔でそのまま出口まで行く。伝票をさりげなくポケットに突っ込んでおけば、テーブルに 残ったままの皿は片付け忘れた皿だと店員は思うだろう。  裕太は監視カメラの死角を確認し、伝票をポケットの中に雑にしまって立ち上がった。そ の時だった。 「お客様!お会計が済んでいません!」突如、店員の声が店内にこだまする。裕太は激しく動揺した。何故?バレたのか?伝票をポケットに入れただけで?どうすればいい?とにかく、逃げるしかない! 即座にその場から走り出し、出入り口のドアを開いて目の前の歩道へと飛び出した。慌てるあまり、目の前の自転車に乗ろうとする男に気付かず衝突した。ぶつかった男は裕太の勢いに押され、呻き声を上げながら歩道の道路側に植えられている垣根に吹っ飛んだ。 「食い逃げ犯を捕まえていただき、ありがとうございました。何とお礼をしたら良いか・・・」 非番だったであろう店長が出向いてきて、裕太に礼を言った。 「ええ、まあ、そんなお礼を言われるほどの事では・・・」と裕太は答える。 実際、こちらも食い逃げをしようとしていただけなのだ。伝票をポケットに入れる際に周りから目を切っていた時に、未会計で店を出た客に店員が声を上げたのを、勘違いした。 「あんなに勇敢に飛び出して行って捕まえるなんて、誰にでもできることじゃないですよ」  店長の隣にいる、叫んでいた店員が裕太に賞賛の言葉を浴びせる。裕太は、どうにも落ち着かない気分である。  店が通報した警察が駆け付けるまで、このようなどうにもずれたやり取りをしていたが、 警察が来てからはそれもひと段落付き、簡潔な事情聴取の後、犯人の連行をしていくと解放された。帰り際に「また是非ご来店ください。こちらもお渡ししますので」と、牛丼の無料券まで貰ってしまった。食い逃げ未遂犯にここまで懇意にするのは、裕太には最早嫌味に思えた。  終いには、後日連絡先を渡していた警察から「様々な店で複数の食い逃げを働いていた常習犯を私人逮捕したとして、表彰がしたい」などと言われたので、「謹んで辞退します」 とだけ裕太は答えた。興醒めどころの話ではない。 3 記念すべき第二回は、カツアゲと裕太はもう決めていた。人の道を外す事さえ思い通りに行かないのなら、最早自分は人であって人ではない、と言われているようなものだ。めげる事は無く、街へ繰り出した。流石に恐喝紛いの事をするので、白昼堂々とする訳にはいかない。夜も更け始める頃に繁華街に出て、「品定め」をする事にした。  流石に、幸薄そうなサラリーマンや、日銭を持って街へ繰り出した田舎者の雰囲気を纏った若者をターゲットにする気は無かった。何も悪い事をしていない人間を、理不尽な恐喝で追い詰める事は本意では無い。となると、悪そうな人間を逆にターゲットにする事にした。  実際は、悪い事をしているかどうかなど一目見ただけでは分からないのだが、見た目で判断するしか方法が無いのだから仕方が無い。人間のルッキズムは根深い、と裕太は感じた。 事実、夜の繁華街は「そういう事」をしている人間も多い。また、それに付随して「そういう事をしてそうな人間」も多く見受けられた。そういった人間に向かってカツアゲをする というのは中々困難だし、今まで悪の道などに逸れたことが無かった裕太は、漫画やドラマの見様見真似でするしか無い。こう言った事は学校では当然だが教えてくれないのだ。 しかし、裕太はどこか自信があった。  彼は三年間、高校球児をやっていた事もあって体躯も良く、初対面の人間が彼と会うと一瞬、怯む程に身長も高かった。その辺の、「ピットブル」とは言わずとも「ブルドッグ」位の人間ならば対面に立っただけで優位に立てる自負があった。  裕太は街の中心にある、モニターがついているビルの壁に背をかけ、ぼんやりと人の流れを見ていた。 「おい、何ガン付けてんだてめえ」声が聞こえ、何事か、と思うと自分が立つ左斜め前から 一人の男が近寄ってくる。どうやら、目があったらしい。男は中肉中背の体格だったが、身体に張り付く黒いシャツに、金メッキの派手なネックレスを付け、夜にも関わらずサングラスをデコの部分にかけている。明らかにチンピラ風貌だった。 「ガンなんて付けて無いですよ」 「こっちをずっと見ていたじゃねえか。何か文句でもあるんだろ?」  とんでもない言いがかりである。こちらは、ぼけっと考え事をしながらターゲットを絞っていただけだ。 「人を不快にさせたんなら、それなりの誠意ってもんがあるだろ?」  おいおい、まさかこの場で強請ろうと言うのか。いくら何でも目立ちすぎる。せめてこう言った手法は、人目に付かないところでやるべきでは無いのか、と裕太は感じずには居られない。 「ちょっとこっちに来いや」 どうやら、その「儀式場」に連れて行く様子らしく、裕太は可笑しくも少し安心してしまった。男の隣を黙ってついて行く途中、裕太の頭に天啓が降りるかの様に、光が灯った。この男を恐喝すれば良いのではないか? 「じゃあまず、誠意を見せろや」 街から少し外れた人気も店もない裏路地に連れて行かれ、到着した相手の第一声はこれだった。何とも陳腐な脅し文句か。相手を威圧する語気が含まれつつ、こちらから自主的に金品を差し出すように誘導して万が一の為の逃げ道を作っている。チンピラでも意外と抜け目の無い部分もある、と裕太は感心した。 「お前が出せ」 裕太は決心を固め、凄む。相手が少し怯んだ気がした。 「なんだてめえ、その態度はよ」  相手の顔が紅潮してゆく。 「まずお前の態度が何だ。お前が金を出せ」 「出すわけねぇだろうが!」 思わぬ反旗を翻された事で、怒りつつも、彼は困惑しているように見えた。 「人に失礼な態度を取ったのはどっちだ?金を出せって言ってるだろうが!!」  裕太は、野球部時代のシートノックの掛け声を出すような要領で、凄む。ついでに、隣に置いてあった木箱を思い切り蹴り飛ばしてやる。男の心が、震え上がるのが透けて見えるような気がした。最早これではチワワだ。 「お、俺を誰だと思ってんだ。この街で俺に逆らう奴は居ねえんだぞ、分かってんのか!!」 意外と、執念深く噛みついて来る。小型犬は意外と気が強いのだ。 「そんな事は知らない。選べ。今ここで、俺に殺されるか、金を置いて逃げるか」  裕太はどこかのドラマで俳優が発していたセリフを流用した。あまりに直接的すぎるため、 流石に捕まった時に言い逃れできないなと自分で感じるが、最初からそのつもりなど無いのだ。恐らく、そこに成功と失敗の明確な差があるのだろう。 「ふざけんじゃねえ!!」  男が遂に我慢の限界、と言った様子で殴りかかって来る。限界まで膨らんだ怒りの風船が、  破裂した様な音を伴った叫びだった。裕太は、それを横にかわす。130km 前後のボールを 直径 7cm 程のバットで捉える運動を繰り返してきた裕太にとって、素人のパンチなど造作も無い。男が前傾の勢いを止められず、よろける。相手がこちらに向き直ろうとした瞬間、 腹に一発、ブローを入れる。  男は、腹部の衝撃に耐えられずに膝から崩れ落ちた。不幸な事に、直撃したのは鳩尾の部分で、呼吸すらままならない様子だった。体育会系の人間が暴力にその力を使ったらこうなるのかと裕太は恐怖すら覚えた。ボクサーがリング外で暴力を振るった場合、通常より厳しく刑罰を受け、ライセンスを取り上げられるのも納得だ。  しかし、これでは最早カツアゲというよりは強盗では無いか。裕太は頭にぼやけたクエスチョンマークが浮かぶも、直ぐに脳内の霞にそれを隠し、男のポケットをまさぐった。  男は手ぶらだったので、財布を入れているのはポケットだろうと大体予想は着く。案の定、 ジーンズの後ろポケットから折り畳みの行儀の良い財布が出てきた。チンピラにしては落ち着いた財布だな、と感想を残し男を放置して路地裏を後にした。声をかけられたのは、表街に出てすぐだった。  結局、財布は手に入らなかった。一部始終を見ていたという男に話しかけられて、その男に財布を取られたからだ。正確には、その財布は元々その男のもので、その男からチンピラが巻き上げたものを裕太が取った、という形らしかった。非常に紛らわしい。さっきの男が財布を一つしか持っていなかったのは、もしかしてどうせ他人の財布を取るつもりなので持ってきていなかったのか?裕太は呆れるほかなかった。  行儀の良い財布を手に持ち、表通りに出た時に「取り返してくれたんですか?」とスーツ姿の痩身の男性に話しかけられ、訳もわからぬまま感謝の言葉を並べられた。 「僕、ここから少し戻った繁華街の外れのところであの人に財布を取られて、悔しいけどやり返せないから追いかけてたんです。そしたら、貴方もあの人に絡まれているのが見えて」 「ここまで追いかけてきたんですか」 「そうです」  裕太は、呆れを通り越して自分の運命を笑いたくなった。悪そうな人間を狙ったせいだろうが、恐喝した相手が恐喝犯だったとは。 「ありがとうございます、ありがとうございます」何度もスーツの男は繰り返す。神に謁見した、と言ったほどの感謝のしように裕太は押され、結局そのまま財布は返してしまった。  お礼として多めに、財布の中の三割ほど。額にして一万円程を渡されたものの、釈然としない。自分が恐ろしい行動をしたという事実よりも、犯罪すら自分の前では無力化する、という御伽噺じみた仮定にだった。裕太は、身体の芯から冷えあがるような寒気を覚えた。 4 「お兄ちゃん、何処に電話してるの?」 埃っぽく、今となっては時代遅れな蛍光灯がぼんやり光る倉庫の中、子供は状況を理解しているのか、していないのか、どこか無邪気に裕太に 話しかけて来る。「君のおうちにだよ」裕太は答えた。  今回は、裕太にとって特別だった。あの"連続"カツアゲ事件から数日後、思いに思い悩んだ裕太は、本当に不本意ながら、「誘拐」をしようと決意した。カツアゲの時もそうだったが、裕太は自分より弱い存在に手を掛けるのが嫌いだった。小学校の頃のクラス内でのいじめや、高校の野球部時代の体育会系特有のいびりやしごきを目の当たりにしてきた影響もあった。  とにかく、一方が絶対に敵わない力関係の下行われる非人道的行為がとにかく好きではなかった。しかし、やはり彼は壊れていた。  子供を誘拐するのは、人が想像するよりずっと簡単だ。それが、親の目の無い瞬間ならば尚更。公園で一人遊んでいた小学生か、幼稚園年長程に見える少年に「面白い遊びをしよう」 と声をかけ、車に連れ込んで、人気のない場所まで運んだ。車に乗った時点で、縄を手にかけ、ガムテープを口と手に貼り、この街の外れ海岸沿い、人気が無く使用されていない倉庫に着いた段階でガムテープに関しては外した。  車から降ろす段階ではそれなりに抵抗するそぶりがあったものの、次第におとなしくなり倉庫に着いた段階では気軽に少年はこちらに話しかけるようになった。最近の少年は達観しすぎて、誘拐の耐性まであるのか。と裕太は思った。しかし、暴力に走る必要がない相手なのはこちらにとっても僥倖であり、力で圧倒的優位にある子供にそのような事をしないで済んだのは嬉しい事だった。 「逃げちゃダメだからね。お父さんかお母さんが迎えに来れば、何もせず返してあげるから」 「うん、分かったー」また、あっけらかんと少年は答える。何なのだ。この少年は。裕太は不気味に感じた。  先程からしている電話の方も、一向に出る気配が無い。少年の携帯の電話帳にあった番号から連絡しているので、間違いは無いはずだが、何か急用だろうか?見知らぬ番号からの電話なので、警戒している可能性はある。  流石に、少年の携帯からそのままかけるような事はしなかった。今時の携帯は、親の携帯と位置情報が共有されている場合が多く、その位置情報の共有の解除が子供側から出来な くなっている場合もある。  車内で携帯番号を確認してこちらの携帯の電話帳に登録だけして、少年の携帯は倉庫に向かう道中通り過ぎた川に投げ捨てた。自分なりに、盤石を期して臨んだつもりである。  しかし、一向に相手が電話に出る気配が無い。まさか、非通知の方が信用出来る感性の持ち主なのだろうか。 「この部屋暑い。服脱ぎたいー」  違和感を覚えながらどうしたものか、と思索している裕太に我儘を滲ませた口調で少年が発言した。まあ、服を脱ぐくらい良いだろうと思い、「縛ってる手の部分までしか脱がせられないけど我慢してくれ」と言い、長袖の服を手首まで脱がせようとした。確かに、この夏の暑い時期に空調の効かない室内で長袖は堪えるだろうな、と思いながら少年の身体を見た瞬間、裕太は凍りついた。夏にも関わらず。 少年の上半身は、叩き跡、引っ掻き傷、打痕、あざ、擦り傷など、キャンバスに滅茶苦茶 に筆を動かしたかの様な歪な傷に埋め尽くされ、悲惨な叫びをあげていた。何故この少年は けろっとしてここにいれるのだ、と思わずにはいられない程に。 「この傷は、どうしたんだい」裕太は思わず聞かずにはいられなかった。  少年は少しバツが悪そうな、寂しいような曖昧な表情をして、「僕が悪いんだ」と答えた。 「僕がお母さんの言う事をちゃんと出来ないから、しょうがないんだ」  裕太は、憮然とする。 「さっきも、お母さんに怒られて家から追い出されちゃって、一人で遊んでたんだ」 てへ、と少しおどけるような態度をとった少年の表情は、子供に似つかない、とってつけたような物だった。 「何て親だ、救いようが無い」  裕太は、そう呟かずにいられない。 「お母さんは分かった。じゃあお父さんはどうしてるんだ?」  両親が揃って暴力を振るっているとは思いたく無かったが、藪蛇を承知で聞かずにはい られない。 「お父さんは、あまり普段家に居ないよ。いつも何処かに出かけてるんだ。」  父親は亭主関白で無関心なタイプか。裕太は、少年の家族像は憶測ではあるものの、すっかり同情していた。 「でも、この間警察に捕まっちゃった」  なんと言う事だ。最早この少年は世の不憫を一斉に集めて煮つめたような存在に裕太は思えた。  しかしこれでは、誘拐をダシに身代金を要求する事も叶わない。子供を蔑ろにしている親が、子供の身代金を必死に払うとは思えないからだ。誘拐も、対象の家族がまともであるという信頼の下で成り立つものなのだな、と裕太は学んだ。 「お父さんは、何で捕まっちゃったんだ?」裕太は、脳内に引っかかっていた事を少年に聞いた。 「お母さんは、食い逃げって言ってた」 何と言う事だ。裕太は、二度目の絶句をした。 「お父さんは、俺が捕まえちゃったんだよ」 と、裕太は当然ながら少年にそう伝える事はできない。それよりもこの先どうしようか、そればかりを考えていた。裕太はもう誘拐の目的は諦めている。 こう言う場合は、児童相談所に通告するか、もしくは警察に伝えるのだろうか。いや、それはまずい。何に対しての「まずい」なのかと言うと、それは両方に対してと言えた。  児童相談所は事実確認や子供を預かってくれる関係者を探す事で、対応が遅れるかもしれない。かと言って警察に通報するとこうなった経緯を伝える際、捕まる可能性がある。匿名で通報しても良いが、この内容で通報するには実際に事情を説明する際に自分が居ないと説得力がない様にも思えた。 どうすれば良いのか。裕太はこれまでの人生で一番脳を回転させた。  程なくして、妙案が思いつく。窮地に立たされれば立たされるほど、案は浮かびやすくな るようだ。 要は、こちらが通報する必要はないのだ。 5 「ちょっと、お母さんが出るまで電話するから、お兄さんが話し始めたら静かにしてもらって良いかな」 「分かったー」相変わらずの聞き分けの良さで、彼は答えた。もしかしたら、大人に逆らわない方がよい、と普段の生活で自然と学んでいってしまったのかもしれない、と裕太は推察した。  何度も電話をかける。何度も何度も。着信拒否されたら、今使ってる携帯から公衆電話まで使って何が何でも連絡を取ってやる。最早裕太は義憤に駆られていると言えた。犯罪でさえもどれも上手くいかないなら、せめてこれだけは上手くとは言えなくても綺麗に着地させたい。何より、逆らえない相手を一方的に痛ぶる事は、やはり許せない。 何回かけただろうか、十五分ほどかけ続け、ようやく繋がる音がした。 「もしもし、お母さんですか?」 「・・・」  向こうからがさごそと音はするが、声は聞こえない。布地を除ける音がしたので、恐らく寝ていたのだろう、数秒の遅れを取って、向こうが声を発する。 「あなた誰よ?」 「私は児童相談所の者です。本日、近所から匿名の通報がありお宅のお子さんに接触した所、 全身に酷い傷が見受けられました。詳しいお話をお伺いしたいので最寄りの相談所までご 訪問をお願いします」  裕太は、何の躊躇いもなく身分を偽った。児童相談所がこの様な対処をとるか否かなど知らなかった。しかし、虐待する親が児童相談所の知識など蓄えようとする訳が無い。裕太は、 この口述が上手くいく事を確信していた。 「・・・」 また、静寂の時。母親は何を考えているのだろうか。裕太には考えるつもりは無かった。虐待する親が謝罪の言葉を今ここで並べたとしても、許すつもりは毛頭無い。相手の素性は、少年の背中が痛い程に語ってくれている。 「逃れようとしても無駄です。貴方が本日中に相談所に来訪するか、もしくは警察に出頭しない場合、こちらとしても不本意ですが、お子様の傷の写真と一緒に貴方の顔写真、住所、 名前を添えてネット上に告発させて頂きます。興信所の協力も既に得ています」  相談所の人間が、この様な強引で脅しめいた措置を取るわけがない。わけがないのだが、 電話口の向こうが激しく動揺するのが見えるようだった。 「待って、私はそんなに殴ったりしていないわ。むしろ、傷付けていたのは大体夫の方で・. ・・」  ここまで来て、こちらに弁解しようとする姿勢に裕太は感銘すら覚える。その弁解を、子 供の前でしてみろ。逆らえない相手からの加虐行為は、目に見える傷以上の心的外傷を与え る。  隣の子供を見やる。相変わらず、上機嫌なのかそうでないのか、足をぷらぷらとさせなが ら顔に笑みを張り付けている。この子は、既に壊れてしまっているのではないか。 「早急に答えなければ、措置を行います。相談所に来訪致しますか?致しませんか?」 「行くわよ」  心底不服そうに、女は答えた。裕太は、少年を拾った公園の区の児童相談所の 名前と場所を伝え、早急に電話を切る。こんな人間とは一秒たりとも話したくない。手短に 少年の縄を解き、車に乗せた。運転中、車内で児童相談所に電話をかけ、「児童虐待常習の親が今から伺うと思うので、よろしくお願いします」とだけ伝え、電話を切った。  これで伝わるだろうか。だが、それもどうでも良い事だった。犯罪者の自分に出来ることはここまでだ、と裕太は脳内の思惑を切った。 電話した児童相談所の前まで運転し、「もうすぐお母さんが来ると思うから」とだけ言い、 そこで降ろした。少年は降ろした時も、「バイバイ、お兄ちゃん」と微笑んでいた。 誘拐に、恐喝に、身分詐称。様々な罪を今回は犯したが、間違った事はしていない。そう裕太は確信していた。これこそ「確信犯」だ。恐らくこの使い方は誤用だろうな、と裕太は自嘲し、車を出す。俺は、自分が一番不幸な人間だと思い込みたかったのかもしれないな、と裕太は反省していた。何ということは無い。十年後か、五十年後か。いつかは素振りの成果が出る時も来るだろう。 車の正面から、慌てて走ってくる女性とすれ違った。
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