1. おひさまとカップケーキ

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 自分が死んだらあとは好きなようになれ、がマスターの口癖だったらしい。三年前に亡くなった後、正樹さんは言われた通り自分の好きなようにリニューアルした。あたたかい木目調の雰囲気はそのままに照明やレイアウトを変えて、おしゃれなカフェに仕立て上げた。  新しい店名には、瞳子さん発案の「ディドル」を採用した。これは「Hey diddle diddle」という一節から始まるマザー・グースの歌から取られている。店内に置かれている洋書のマザー・グース全集も、瞳子さんが持ち込んできたものだ。  カフェ・ディドルができるまでの話を聞いたとき、大事な店名を妻の趣味に任せちゃってよかったの? とは正直思った。けれど正樹さんは満足しているらしい。 「私のマザー・グース好きは、これからも変わりませんよ。あんなにへんてこで、あんなに楽しいものはないですから」 「はいはい」  正樹さんは食事の手を止めたまま、にこやかに瞳子さんを見つめている。ふたりの周りだけ、ぽわっと橙色の灯りに包まれたみたいな空気感だ。  この人は心の底から瞳子さんが好きなのだと、端から見ていてもよくわかる。それに負けないくらい瞳子さんも正樹さんが好きだということを、私は知っている。  好き、ではなく愛と表現したほうがふさわしいのかもしれない。ただ、愛の二文字は広くて深くて、半人前の私には当分使えなさそうだ。  私は幸せそうな子どもを見ると複雑な気持ちになるくせに、幸せそうな夫婦を見るのは大好きだ。生まれたときから母子家庭の私にとっては、映画に出てくる魔法使いや妖精なんかよりも、現実世界の夫婦のほうがはるかにファンタジーチックに感じる。夫婦生活は一筋縄ではいかないだろうと理解していても、憧れを見出すことをやめられない。  瞳子さんと正樹さんは、理想の夫婦そのものだ。 「どうしたんですか、正樹くんだけじゃなくて瑠花ちゃんまでにやにやしちゃって」 「なんでもないですよ」  みそ汁のお椀を傾けて、ゆるんだ顔をごまかした。
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