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雨を見に来ないか
スマホが震えたのは、昼休みも半ばに差しかかった時だった。
たらこおにぎりをかじりながら、反対側の手でLIMEを開く。
『雨を見に来ないか』
視線をずらすと、ブラインドの隙間から、窓に貼りついたたくさんの滴が見えた。
降り始めてから、もうしばらく経っているようだ。
通勤時には雲ひとつなく青かった空が、今は一面の濃灰色に覆われている。
『肴は何がいい? 途中で買ってく』
送った言葉には、すぐに既読がついた。
『バーカ、雨が肴なんだよ』
ふんと鼻を鳴らし、得意げにする彼の様子が生き生きと思い浮かぶ。
寺の長男として生まれたばかりに無理やり家業を継がされ、檀家から〝生臭坊主〟なんて揶揄されるほど俗世を愛する男だが、こんな時ばかりは「さすが坊主」といったところか。
『定時になったら、ダッシュで行くよ』
デスクの上に裏返したスマホは、またすぐに揺れた。
『この雨、夕方までには止むらしい』
ひん曲がり、尖った唇。
脳裏をよぎったのは、生臭坊主のふくれっ面。
『会いたいならそう言えよ』
自惚れにまみれた俺の言葉にはすぐに既読がつき、だが彼から返事は届かない。
俺は小さく笑ってから、もう一度指を動かした。
『今から行く』
残りのおにぎりを口の中に押し込み、スーツのジャケットを引っつかむと、上司への挨拶もそこそこにオフィスを飛び出す。
紫陽花に落ちる雨音を肴に酒を飲むーーそんな風流なこと、彼と出会っていなければ、俺には一生無縁だったに違いない。
もちろん、今、胸をいっぱいに満たしているこの気持ちとも。
ポケットの中で、スマホが震える。
走るリズムに合わせて上下する画面に目を凝らすと、現れたのは、照れ屋な彼の真っ赤な本音。
『はやくあいたい』
頬に集まった熱を、打ちつける雨がさらっていく。
愛しい生臭坊主のまだ見ぬ笑顔を思い描きながら、俺は湿った街を駆け抜けた。
fin
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