第二章:ダイヤモンドの軛《くびき》

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*****  人の命なんてあっけないものだ。  意識不明の重体で白河病院に運ばれた兄ちゃんは結局、目を覚ますことなく息を引き取った。 「ご臨終です」  医師の言葉に周囲の大人三人が凍り付く中、俺の胸にポッと生じてジンワリと広がっていったのは安堵だった。  これでもう俺の裏切りを知った兄ちゃんと家の中で顔を付き合わせて暮らさずに済む。  優衣さんから贈られたコートの下に浮気相手から貰ったネクタイを締めて会社に出ていく兄ちゃんの姿を目にせずに済む。  兄ちゃんが他の女にキスした口でウェディングドレスを着た優衣さんの唇を奪う呪わしい結婚式に出なくて済む。  これ以上、兄ちゃんが優衣さんを汚して壊していく仕打ちに苦しまなくて済むのだ。  そんな風に安堵している自分は醜く非道だと十歳の頭にも理解できたが、それまでの兄が自分たちの信頼に対して一体どのように応じてきただろうか。  遺体の怪我を逃れた左手の薬指には、もはや骨か関節の一部のようにあのプラチナのエンゲージリングが嵌められていた。  このままこの指環と一緒に焼かれて灰にされてくれ。 「優衣さん」  俺は茫然とした面持ちで、しかし、頬には涙の筋を付けている相手に抱き着いた。 「兄ちゃん、死んじゃった」  だから、もうあいつのために泣かないで。  祈るような気持ちで頬の涙の跡に口付けた。柔らかで優しい香りがした。 ――蓮、そっちは駄目だよ。  何故かずっと昔の、まだブレザーを着ていた兄ちゃんの姿が蘇る。 ――落ちたら、大変なんだから。  あの頃よりもっと大人になっていたはずの兄ちゃんはどうしてこうなってしまったのだろう。
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