第三章:指環は嵌めたまま

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*****  ガラス張りのエレベーターが下に動き出して、足元が微かに浮き上がる感覚に囚われる。  確かに今日は良い天気だ。  雲一つない、からっぽな、妙に高くて手の届かない感じに薄青い空。  兄貴が生きていたら、こんな空の下で結婚式を挙げたのだろうか。  ふっと息を吐く。  兄貴にとっても、あのタイミングで死ぬのが良かったのだろう。  事故に遭わずに優衣さんの家に辿り着いていたら、自分に絶望した彼女の姿を目にすることになっただろうし、話し合おうにも手酷く拒絶されたかもしれないのだ。  常識的に考えて、兄貴の行動は婚約破棄されても致し方ない性質のものだ。  優衣さんはもちろん彼女のご両親が知るところになれば、破談は当然、加えて慰謝料など現実的な補償を迫られた可能性もある。  浮気相手が職場の同僚となれば、そちらにも制裁が行って、何らか仕事に支障を来す事態にならなかったとは言い切れないだろう。  そこまでは行かなくても、「挙式直前に浮気がばれて婚約破棄された男」と周囲に知れれば、兄にとってプラスになることは何もない。  優衣さんと別れてあの狐顔の女と新たに婚約したところで、そんな不倫に近い始まり方をした相手に対して、うちの両親や周りが優衣さんに対するより好意的に接したとはとても思えない。  そもそも兄貴の中でも隠れた浮気相手にしていたあの女性が優衣さんより長くずっと一緒にいたい相手だったか。  仮に優衣さんが全てを許して結婚したとしても、 ――この人は他の女性とも同じことをしていた ――ずっと騙していた 内心では苦しみながら兄とキスして抱き合う彼女の姿を想像すると、地獄図のように思えた。  あのタイミングで不慮に亡くなってしまったから、優衣さんの中でもそれ以上醜悪な存在にならずに済んだのだ。  要は兄貴はそんな風にして勝ち逃げしたのだ。  ガラス越しに広がる水色の空に表情の消えた男の顔が浮かび上がる。  十七歳になった俺はこんな風に不意に顔が映ると、記憶の中で優しく抱き止めてくれた同じ年の頃の兄貴ではなく、死の直前の青ざめて出ていく兄貴に良く似ている。
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