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──
「借り人競争の時の一ノ瀬くんさ──」
「なあ、なまえ」
「え?」
「……名前、呼んでくんねーの」
──歓声や熱気の残滓が感じられる校庭を二人で歩きながら、思い立ったが吉日と時雨に聞いてみた。海里は元より他人に物を頼む事が少ないので、こうした時には殊更言葉少なになる。
それもこれも手の掛かる友人の世話を焼いているせいだと心の中で柔らかい責任転嫁をした。
「……何、いきなり」
「いや〜俺今日は友達の為に頑張ったんだしさ、このくらいは良くねえ?八宵ちゃんの友達である時雨ちゃんともこの間と今日で親交を深められたってことで、さ。ここはひとつ」
「え〜……全く、仕方無いな」
時雨は困ったように笑ってみせると、口を開いた。
「──海里」
『かいり』
「頑張ったね」
『わたしはもう大丈夫、背負ったものをおろして』
「──……!」
不意に鼓膜に届いた二重に名前を呼ぶ声に──海里は両眼を見張った後、音にならない声を上げて彼方を向いた。
「あ゛〜……クッソ、……俺ダセェ」
「え、何、なに。女子の名前呼びってそんなにダメージを受ける事?そんな呻き声を上げられると流石に驚くんだけど」
戸惑う時雨に、海里は笑う。
「いや、ごめんごめん。……何つーかさ、上手く言えないんだけど……取り敢えず今から話すことを聞いてくれねえ?」
「うん、勿論」
「……今やっと分かったんだけど、俺は、名前を呼ばれて『許されたかった』んだよ──瑠衣に昔の自分を重ねて、それを救うことであの頃の自分を救ってやりたかった。謝れなかった昔のあいつに償いたかった」
「……だから多分瑠衣と友達で居たことも、傍でアイツを助けてたことも……結局アイツの為なんかじゃなくてさ、ただのエゴだったんだよ。だから俺はアイツに感謝される資格なんてない」
「ありがとうなんて、言われる人間じゃないんだ」
「──」
「あー……ごめんな、いきなりこんな話を聞かせて。今日はどうにも調子が出ねえわ、体育祭の熱気に当てられたかもしんねえ」
──苦笑いにも至らぬ海里のぎこちない笑みに、時雨は静かに目を細める。明るさの仮面を被ったまま素顔を見せない海里の深意を探ろうと、ただ、ひたすらにじっと見つめた。海里は笑みを浮かべたまま片手で視線を避けるようにふざけた体勢をとってみせるも、時雨の両眼は変わらず海里を見つめていた。
居た堪れなくなった海里は、時雨に問う。
「……ん〜……?なーに、時雨ちゃん。そんなに見詰められるとお兄さんは穴が開きそうなんだけど」
「誰がお兄さんだ、同い年でしょ。……海里くんはさ」
「おう」
「優しい人だと思うよ」
……唐突な言葉を受け海里は内なる戸惑いを表すように、一度、双眸をやんわりと瞬かせる。何を言いたいのか続きを待つ様子が見て取れたので、時雨は地面を爪先で叩きながら海里の目の前に回り込むと両手を広げてみせる。今の状態は俗に言う通せんぼに等しいだろう。
大仰な動作へ更なる動揺を顕にした海里に、時雨は首を傾げて尋ねた。
「海里くんはさ、自分と凪島くんを重ねて見てたとはいえ"凪島くんに自分と同じ道を辿って欲しくない、苦しむ姿を見たくない"からこそ行動に移したんでしょ?
それは紛れもない海里くんの優しさだから、それまで否定することは無いんじゃないかな──いやまぁ、この考え方は別に強要するものでもないけど」
「──」
「発端が何であれ"凪島くんを助けたかった"、その思いまで否定することはないんだよ」
……言葉を受けて海里はゆっくりと天を仰ぐ。同じ空の下に居るであろう、かつての友のことを思いながら。
そして、祈りを込め、小さく呟いた。
「……そっか、ありがとう時雨ちゃん。……なあ。もしいつか、またあいつに会えたらさ」
「うん」
「──今度はちゃんと謝れそうな気がするわ」
「そりゃ良かった。もう女の子は泣かせたら駄目だよ」
「分かってる。時雨ちゃん、俺より男前じゃん」
「今更ですか、一ノ瀬くん」
空を見つめ、二人は笑う。
──涙の雨はもう上がった。あと幾夜かを過ごせば、夏の匂いが鼻腔をくすぐるようになることだろう。
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