VOICE

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「──、……」 ──……とにかく、声が良い。地を這うような威圧的な低音でも無ければ不機嫌を顕にした棘の有る声でも無い、だからと言って休み時間に声高に騒ぐ男子のような声でも無い。相手に要件を告げる時や耳の痛い指摘をする時すらも穏やかな声色を崩さず、心を柔らかな布地で包んでくすぐられている心地を与える。 篠塚八宵は、自分の向かい側の椅子に腰を下ろしている少年──凪島瑠衣の声を聞きながらそんな事を考えていた。この声は彼の委員会の役目である校内放送で初めて聞いてからずっと、耳に残って離れない声。 「この文脈だと──で、……、……聞いてるのか?」 ……あ、今、機嫌を損ねたな。 落書きだらけのノートから顔を上げれば、声と裏腹西陽に照らされた瑠衣の顔は見てそれと分かるほどに機嫌が悪い。眉間に皺を寄せて僅かにこちらを睨みつけている。度の強い黒縁眼鏡が眼光の鋭さをいくらか緩和させているが、それでもかなり不機嫌なことは窺えた。──元はといえばどれもこれも声にばかり注意がいって話を聞いていなかった八宵が悪いのだが、それにしたってそんなに睨むことはないだろう。 「聞いてたつもりだった」 ……思わず溢れた言葉に、目の前の眉間の皺が深まるのが見て取れた。これはまずい。 「何それ。俺もう帰って良い?」 「待ってください瑠衣くん、君が居ないとこの課題はどうにもならないんです。平にご容赦を」 ──茶化された事が不服だったのか、瑠衣は深々とため息を吐いた後に八宵のノートに視線を落とす──コミカルなものと言うより例えて言うなれば『真面目に描いた落書き』達を見て、思わず二度目のため息が漏れた。この集中力を勉強にも活かせば考査の件で教師から呼ばれる事も無いだろうに、全く、才能の活かしどころが違う気がするのは瑠衣だけだろうか。 「──……次に茶化したら帰るからな」 「寛大な御心に感謝します」 「帰るぞ」 「待って駄目」 傍から見れば呆れ交じりに何をやっているのか尋ねられてしまいそうなやり取りだが、幸い瑠衣のクラスである3-5の教室に現在人気は無く放課後に勉学に励むのは自分達だけだ。なので心置きなく悪態──もとい、軽口を叩いていても怪訝そうな視線を向けられることもない。 「瑠衣ー!!」 「うわまたうるせえ奴が来た……」 「八宵ちゃんも居るじゃん、お疲れ!」 「海里くんお疲れ〜。瑠衣くんに課題を見て貰ってるけど全然終わらない、助けて。ヘルプミー」 教室の扉を勢い良く開け放って静寂と悪態の絶妙な均衡を破った闖入者である一ノ瀬海里は八宵の顔を見、瑠衣の顔を見、ノートを見、目を見開いて的外れな感嘆の声を上げる。 「……八宵ちゃん」 「ん?」 「絵、上手過ぎねえ?俺ビビったんだけど」 その言葉が耳に届いた瞬間、瑠衣は机に置いていた問題集に指先をかけて静かに閉じた。二人分の視線がこちらを見たものの、それに構う事なく閉じた問題集とノートを己の鞄の中に片付け始める。 「──よし、今日の勉強会は終わりで」 鬼だ非情だと騒ぐ二人を背にして、瑠衣は鞄を掴み教室を後にする。
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