【怪談】イタイイタイさん

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 清らかな水が流れる深山の小さな町で「痛い,痛い」と泣き叫びながら酷く痩せ細った足を引き摺り,昼夜を問わず町を徘徊する者たちがいるという。  かつて鉱山によって栄え,そして滅んでいった町が富山県の奥深い山に存在する。戦前戦後と積極的に鉱物を採掘し,二十四時間休むことなく精錬所からカドミウムを含む未処理廃水が近くの川に垂れ流された。  昔から川の水を生活用水として利用していた住民たちは鉱毒と呼ばれる金属が含まれた未処理廃水を何も知らずに料理や風呂に使い,当然日々の飲料水として摂取した。  やがて住民たちは口の渇きや多飲多尿を訴えるようになり,すぐに全身から力が抜けて立ち上がれなくなった。原因がわからないまま寝たきりになると,くしゃみをするだけで骨折するようになったが,医者も原因も治療法もわからないまま無駄に時間だけが過ぎていった。  動けなくなった住民たちは,体の内側で細かい棘が無限に刺さるような痛みを訴え,二十四時間「痛い,痛い」と泣き叫び,町のあちこちで悲鳴にも似た苦痛の声が何年も響き渡った。  国が重い腰をあげて調査に乗り出し鉱毒が原因とわかった時にはすでに大勢の命が失われ,墓地では毎日のようにお経が唱えられる横で火葬される煙が空を黒く覆っていた。  やがて墓の数が増えていくと住民はかつての半分以下になり,町としての機能は失われかつての賑わいは消え去り過疎化した。  それが昭和三十年代の出来事であり,その光景を鮮明に覚えている者たちが令和の今でもわずかに存在し,彼らは年老いてもなお目を閉じると耳の奥で響き渡る悲鳴と人の体が焼ける臭いに苦しめられている。  町に住む何も知らない数少ない若い世代は,自分たちの祖先がそのような苦しみの中で命を失ったことを学校の授業で教わるだけで,町も暗い歴史を隠すようにしていた。  しかし今でも酷く天気の悪い曇天の日になると「痛い,痛い」と苦しそうに呟きながら町を徘徊する者たちがどこからともなく現れ,そんな彼らを地元の人は「イタイイタイさん」と呼び,すぐ横をすれ違っても目を合わせず,通り過ぎるのを黙ってやり過ごした。  町の若者たちも「イタイイタイさん」が現れると,幼い頃から親の真似をして下を向いてやり過ごし,自分たちの祖父や祖母が苦痛に歪んで苦しそうにしながら徘徊するのを黙って見送った。  そんな町に残る住民らの耳の奥には,いつまで経っても「痛い,痛い」と囁く先祖の声が残り続けている。
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