001 謎の女

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001 謎の女

「彼は私で、私は彼だったんです」  目の前の女に気遣うことなく、私は深い息を吐いた。  八月のじりじりと焼けつく西日を窓越しに受けた背中は、冷房の効かせた室内であってもそれなりに熱かった。もっとも、女の信じ難い語りを二時間近く同じ立ち位置で聴いているのだから、無理からぬことでもあった。元来短気な私の精神は忍耐の尾が切れる一歩手前なのだろう、背中に感じていた熱よりも、胸の内に広がる焦燥感とも、怒りにも似た感情が一気に押し寄せて今にでも噴火の勢いを帯び始めていた。幾分語気を荒げた。 「沢木(さわき)さん、もう一度確認しますが、貴女のいう彼とは、作家の井伏海路(いぶせかいじ)のことですよね? しかし、彼は既に亡くなっている。しかも、亡くなられて二十年が経っている。確か貴女の年齢は二十八歳と先程貴女ご自身から伺いましたが、生前の彼と貴女がこの世に二人存在をした八年を、貴女はどう説明するのですか?だってそうでしょう、貴女の言い分では、彼は貴女で貴女は彼と主張するのですから。私は貴女がどうしても、妄想を話されているようには思えないのですよ。ならば、何か理由があるのだと思うのですが、どうか私を信じて話していただけないでしょうか」  私はこれまでに精神科医として二十数年の経験から、必ずしも沢木が妄想状態にあることを否定する根拠があったわけではないが、なぜか、女の話しを俄に信じられないうえに、妄想による語りなのではないと直感が働いていた。 「目に見えたものだけが真実なのでしょうか。先生、この世には解明できない未知なる存在があっても、それらを証明する術がない者にとって、結局は妄想としか受けとって頂けないのかもしれませんね」  麻の生成り色の着物を着込んだ沢木明子さわきあきこは、華奢な印象の女で、薄幸の美人といった風情だ。声色はしっとりと艶めいて、これが患者ではなく知人というのなら、私は多少なりと惹かれていたかも知れない。 「妄想ではない根拠を教えてほしい、そう、具体的にどうだというのです?」  もう既に時計は十七時を過ぎている。あと三人予約患者が待っているというのに、私は定時に仕事を終われないことへは諦めも着いていたが、そこから先の美咲みさきとの久し振りのデートに想いを馳せていたこともあって、余計に焦燥感が募った。 「八歳の私を通して、彼は生きていたのです。これをご覧になれば少しは信じて頂けると思うのですが」  風呂敷から取り出した茶封筒の中に、薄汚れて褪せた原稿用紙の束が出てきた。それを沢木から受けとった私は、ざっと目を通す。 なるほど、子供の字だ。  無論これが井伏海路という作家の残した作品であったとしても、彼女が写し取ったのかも知れない。それに、八歳の女の子の肉体を通して書いたものだという根拠にはならない。おまけに、もしかしたら井伏海路の作品ではないかもしれないじゃないかと、つい女の口から出た全てを否定してしまう。  一向に埒の開かないやり取りに、「沢木さん悪いのですが、この後患者さんが待っていますので、これ以上続けるのであれば日を改めて……」という私の言葉を遮り、女は蠱惑的な微笑で、「真実を知れば、先生は生きていることができないかもしれません。でも、きっとお知りになりたいでしょう」というなり席を立って、私に意味深な一瞥をくれて女は診察室を出て行った。 「何なんだ、あの女は」  看護師の水島(みずしま)が、「黒田(くろだ)先生、次の患者さんをお呼びしてもいいですか?」と問うまで、惚けた顔をしていたに違いない。デスクに肩肘をついてぼんやりしていたところに声をかけられて、はからずも背筋がビクンと刎ねてしまった。 それというのも先程の奇妙な患者、沢木の所為だ。もしかして、沢木は私の過去と何か因縁があるのではないか。だから嫌がらせをされているのだろうか。そんな馬鹿げた事まで考えるとは、私も相当重症だと言わざる得ない。何も私の過去には一点の曇りもないのだから、女とどこかで接点があったとしても怯えることはないのだと己自身に言い聞かせた。だが、何かしら胸の奥が騒がずにはいられない。女が最後に匂わせたものが何を意味するのか、到底理解し難いが為に一層私を苛ませるのだった。
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