002 逼る

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002 逼る

「待たせたね」 「ううん、いいのよ。だって、仕事なんだから仕方ないわ」  先程までの苛立が消えていくように思えたのは、おそらく目の前にいる穂積美咲(ほづみみさき)の長閑な空気感にあったのかも知れない。彼女とは共通の知人を介して知り合い、交際から既に三年近くになる。物腰の穏やかな気配りのある女だった。美人というには見劣りするかも知れないが、佇まいの美しい人で、私は一目で彼女を気に入っていた。  今日も約束の十八時を過ぎて、大方二十時に近いというのに彼女は怒るどころか不満さえ漏らさない。二人の勤務地の間にあるカフェで待ち合わせて、その後居酒屋やフレンチ、イタリアンなどの店へと繰り出していた。その殆どといっていいくらい彼女が先に来て待っていることが多かった。仕事柄か定時に上がれないという理由があったものの、私ならこれほど忍耐強くはないだろう。だからこそ、彼女がこの三年もの間一度として不満を漏らしたことがないのには、正直驚いていた。  私は未だ、美咲の笑顔以外の表情をみたことはない。三年という時間はお互いを知る上で決して短くも長くもない筈だ。なのに、笑顔以外の表情が見えないのはどこか奇異にも思えるが、美咲の長閑で包みこむ空気感に、いつの間にか彼女はそうした女なのだと思い込むようになっていた。  こじんまりとしたカフェだけに、店仕舞も早く、ちょうど一杯のコーヒーを飲み終える頃には二十時を迎え店仕舞となった。彼女は口元を綻ばせて「仕方ないわ」と言いたげである。私はといえば、遅れて来たが個人の店なのだから、臨機応変に扱ってくれてもいいだろうと少なからず不満を抱いていたというのに。彼女は、できた女なのであった。  美咲は市立図書館の司書をしていた。だから定時に上がることができるのかというような、何事も簡単な仕事はない。他人から見れば簡単そうに見えても、物事の本質はその中に入って見なければ何も分からないものである。普段は本の整理に追われて定時に上がれなかったが、それでも私のように約束の刻限に大幅に遅れることはなかった。  徒歩で三十分もしないうちに目的のフレンチの店はあった。道すがら淡々と歩く私に、何とか歩幅を合わせて追ついて来る美咲の健気さに、内心満足を覚えた。  私たちより少し前を歩く二人の男女は、何が楽しいのかよく笑ってお互いに目を見合わせている。私よりほんの少し遅れて歩く美咲を目の端で捉えると、彼女の目は男女の繋いだ手に注がれていた。美咲も私と手を繋ぎたいのだろうか?ーーふと沸いた感情を持て余しつつ、憂いにを帯びた美咲の色香に惑わされたのだろうか、私は彼女の小指に触れてそのうちに手を繋いでいた。  何とも女の手は柔らかいものだ思った。私とて、女の手を知らないわけじゃない。  美咲とは、デートの決まりコースとして最後にはホテルへと向かう。こんなしおらしい顔をして、夜の彼女は豹変をするとまでは言い過ぎだが、昼が淑女なら夜はただの女になった。それが一層私を狂わせたことには間違いない。そして、必ずと言っていいほど、最後には組み敷いた美咲の手を私は握っていた。だが、ただ手を握ったくらいの記憶で、その時の感触は覚えていないのだ。今彼女の手を握っているにも関わらず、思い出すことはできなかった。  美咲は不意を突かれて、躯をびくっと小さく振るわせた。彼女のその反応は珍しく、私を大いに満足させた。  ようやく店の前に辿り着いて、私たちは店へと続く階段を上がって行った。  一軒家の隠れ家的なその店は、美咲の女友達に勧められて行ったのをきっかけに、数度と訪れている。白い煉瓦で施された外壁にはスイカズラの葉が這っていた。東アジア原産のつる植物で、初夏の頃には白い花を咲かせる。前回は調度花が咲いて見頃の時期だった。  階段を上りきった所の小さな門を潜り抜けて、店内に入ると落ち着いた空間が広がっていた。若干照明が落ちて、傍近でないと顔が識別しにくいのには、毎度ながら私は閉口した。だが店の客の殆どは、それがいいらしい。美咲も客の寄りのようだ。  私たちは適当に頼んでシェアをした。普段から私は食が細く、コース一人分を二人で分けたくらいが、私の腹を満たすには十分な量と言えるだろう。そんな私には一つだけ厄介なものがあった。 「黒田様、いつもご贔屓にして頂きありがとうございます。本日は、黒田様のお好きな銘柄を入荷してございますが、如何いたしましょう」  このとおり、酒に弱いのだ。特にワインを飲みだすと止まらない。同僚の精神科医に言わせると、アルコール中毒らしい。二十年前の火事で家が全焼し、母を失い、私自身も断片的な記憶を失っていた。それからというもの、母がよく好んで飲んだワインを私も飲むようになった。同僚からは、気をつけるように再三に渡り釘を刺されていた。にも関わらず今夜もまた、「いただきます」と言ってしまっていた。  別に酒を飲み過ぎて誰かに迷惑をかけたことはない。ーーいや、ない筈だ。  美咲が食後のデザートを頬張る傍らで、私はシャトー・ムートン・ロートシルトを呷る。初めのうちこそ畏まって飲んでいたが、そのうち酔いが回ると自分で継ぎ出して飲む始末。疲労によるものか、はたまた今日の奇妙な患者の所為なのか、今日の私は些か飲み過ぎるきらいがあった。  酒は好きだが、それほど強くはない。ワインを一本から一本半で瞼が落ちてきているのだから。美咲じゃない誰かに肩を揺すられて、私の視界は霞み、深い眠りの淵へと落ちていった。
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