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003 過去
『おい起きろって、常慈』
誰かが、私を呼んでいる。私よりも十五歳以上の年上の男だ。深みのある渋い声は、確かに聞き覚えがあった。ーーああ、海星さんだ。今日は何を話してくれるのだろう。私は、急いで身支度を整えると彼に駆け寄って行った。
『海星……』
しかし、今日の海星は何か違う。何がと問われれば、別段普段と変わらない装いだが、明らかに目が違っていた。普段の穏やかな優しい眼差しではなく、血走った目には狂気を孕み幾分高揚しているようにも見えた。
何がどうしたというのだ、一体。私を見据えて迫ってくる。
『か……い……せい……さん、嫌だ……』
私は訳も分からず、ただ恐怖から逃げたいとそればかりに懇願し、首を横に何度も何度も振った。だが私の抵抗も虚しく、海星の躯が一歩、また一歩と私に近づいてくる。
『あの人はね、お前だけが可愛いんだ。ーー私がお前の首を絞めたら、彼女はどんな顔をすると思うかね?」
彼の両腕がすうっと伸びて私の首を掴む。咄嗟に私は身を固くして、恐怖に息をすることさえ忘れてしまっていた。少しずつつ彼の指に力が加わり爪が皮膚にくい込む。私の首を、まるで七面升の首を捕らえるようにしてじわじわと絞め始めた。その時の彼の表情と言ったら恍惚としているのだ。これが私を可愛がってくれた、兄と慕う人のする所行なのかと目の前の光景を疑った。
『あんた、何してるの!ーーほら、息子から離れなさいよ!』
母の声に我に戻った海星は、私の首を絞めていることに気づき、その場に崩れ落ちると項垂れた。私の憧れた彼の理知的な顔は、もう何処にもないのだ。すっかりうらぶれてしまって、私の理想は微塵になって飛散したことを悟った。母が出て来た部屋は、彼女が寝室に使っている奥の部屋からだ。彼女の金切り声に、もう一人男が母の部屋から慌てて飛び出して来た。男は海星を捉え、薄ら笑いを浮かべている。
『あんたに用はないんだとさ、早う去ねや』
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