004 帰結

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004 帰結

 白い柔らかい肌に触れる。 (そう……か……美咲と食事をして……) いつものように、ホテルに来ているのだと疑わなかった私は、嫌な夢に飛び起きた。  寝汗をびっしょりと掻いている。ーー海星の夢なんて、いつ頃からかみなくなっていたというのに。私は起き抜けにシャワーを浴びようとベッドを抜け、傍らに裸体を晒して眠る女性に視線をやる。そこに眠る美咲に、肌布団を掛けてやろうとして、私は驚愕し動けなくなってしまった。ーー当然美咲が寝ている筈の場所に、沢木明子が躯を横たえ、視線だけを私に向けて薄らと微笑んでいたのだから。私の動揺ぶりといったら、無様なほどだっただろう。女体に身をやつした妖怪か亡霊でも見るように、沢木を見て蒼ざめ、そのまま足下にへたり込み躯をがくがくと振るわせた。 「な、な、何をやっているんだ、こ、こ、こで……みさ…きは、美咲はどうしたんだ!」  沢木はくすくすと笑い、昨日の午後に訪れた着物姿の女とは別人に見えた。目の前の女は、まるで娼婦のように裸体を晒そうが恥じ入る様子はない。それどころか、私に惜しげもなく晒し見せつけている風でもある。着物姿の沢木は華奢な印象が強かったが、今目の前にいる女は、ふっくらとした乳房をして丸みを帯びた腰のラインが如何にも女性的で刺激的な肢体をしていた。何よりも白い肌が、薄暗い室内では一層際立った。だが、男が女の裸体を見れば興奮するとでも思っている、そんな女の作為が匂った。それでも構わぬと乗っかる男もいるだろうが、私は、沢木が女に見えていなかったのだから、仕方ないのだ。  それは母も同じで、私には、女体の姿をした魔物でしかない。 「美咲は帰りました。ーー常慈さん、私を覚えていらっしゃらないの?」 「知りませんよ、貴女なんて。一体、私と何の関係があると言うんです」 「いいわ、教えてあげても。でも、その前にこの原稿を読んで。ーー常慈さんは、読まなくてはいけない義務がおありなのよ」  サイドテーブルの上には、昨日見た原稿の入った茶封筒が置かれていた。この原稿さえ読めば、なぜか分からないが目の前の女と離れられる、そんな予感から私は唯々諾々と読み始めた。  読み進めるうちに、私の両手も両下肢もがくがくと震え、立っていることが不思議なくらいだった。やがてそれは、四肢から中枢にまで及び、終には呼吸が止まると思われる程、私を戦かせたのだ。血の気が引いていくのを、まるで己自身ではない誰かを見下ろすように見ている、そんな錯覚を覚え私はその場に崩れ落ちた。ーー何とか辛うじて、意識を保てていたのは私の頭に占める靄がかかった何かを、知りたいからだったのだろう。 「井伏海路は、海星さんのことなのだな」 「ーーええ」 「この原稿が井伏海路のもので、書いてあることが事実だとしたら、私は海星さんを殺したことになる。ーーだが、嘘だ。そんなことがある筈はない」  私は未だ震えの止まらない手指で、忌まわしい原稿を掴んでいた。沢木に問いかけるその声すら普段の己の声ではなく、酷く掠れていた。 「でも現に、彼は死んでいるのよ。貴方に殺されて」  詰る彼女の声も、どこか非現実的に、私には聞こえた。 「君は誰なんだ!ーー沢木なんて名を知らない。私を陥れようとしているのか?そもそも何で私が君とここにいるんだ、美咲はどうしたんだ?ーーまさか君たちはぐるなんじゃないだろうな………まさか美咲に限って………」 「美咲は私の妹よ。ーー常慈さん。昨日も言ったけれど、目に見えたものだけが真実ではないわ」 「しかし……名字が違う……美咲も……か……」  母に裏切られたとき以上に、美咲のことは、私を暗い深淵へと追いやるのだった。沢木はそんな私の事など構う様子もなく、無機質に淡々と語り出した。 「美咲は父を嫌って、母の旧姓を名乗っていたから……。海星は、沢木海星さわきかいせいは、私の父よ。作家だった海星は、スランプに陥って書けない日々が続いたの。まだ駆け出しで数冊しか出てなかったけれど、小説を書いている時の父は、何も目に入らない程の集中力で書いていたわ。それが海星にとっては何にも代え難い生き甲斐だというように。当然、母や私たちの存在など無視して。意図的じゃなくて、まるっきり関心がないの。ーースランプに陥った海星ほど、手をつけられないものはなくて、荒れては母を、作家の持てる語彙力を発揮して果敢に攻め立てるの。幼かった私にさえはっきりとした意味が分からなくても、大体の事はニュアンスで理解出来たわ。とても聴いてられな程で、死にたくなるほどの言葉の暴力だったわ。それでも母は、昭和の人なのね。幼い私たちのためもあったのでしょうけれど、母なりに作家井伏海路を理解しようと努めていたわ。何より愛していたのね。そんなとき、常慈さん、貴方のお母様と出会ってしまい、海星はすっかり逆上せ上がってしまったの。その原稿にも書いてあるように、常慈さんのお母様はとても美しい人だとか。海星にとっては残念なことに、お母様は独りの人では満足できない人だった。人一倍自尊心の高い海星は袖にされて、そのあとは口に出すのさえ憚れることが重なったわ」 「その続きが、この原稿という事なんだね」  沢木はゆっくりと頷く。原稿の冒頭は、私の夢にいつも出てくる場面からだった。  海星と知り合ったのは約二十年前で、当時私はまだ医大を卒業して一年が過ぎた頃だ。ーー年は二十五歳くらいだろうか。母も以前から奔放な人ではなかった。まだ私が幼かった頃、癌で父が他界してからというもの、女手一つで育ててくれたことには感謝をしている。ただ、私は母自身じゃないのだから、どこでどう母の人生の歯車が狂い始めたのか、原因さえも分からない。とにかく、あの頃は母に対しては嫌悪しかなかった。でも今の私なら、多少は理解できそうである。それは、人生にはいくつもの落とし穴があって、強い意志がなければその穴に吸い込まれるということだ。望んで落ちる事もあるだろうが。母は私の為に掛け持ちでパートをして、帰宅すれば家事に追われての毎日で、大凡母の友人達のようにお洒落をして出かけるような余裕はなかった。だから男にだらしなくなったというには、あまりにも身勝手に聞こえるが、人は誰かに寄りかかりたいと思う時があるのではないだろうか。そんなとき知り合った海星は母より年下だったが、曾て父が生きていた頃のように母の溌剌とした顔を見た気がする。私にとっても、海星だけは特別だった。   彼のウィットに飛んだ話しは、退屈だった私を救ってくれた。作家だったのなら、それも頷ける。しかしここにくるまでは、彼が作家だったことなど知らされてなかった。おそらく、母も知らないだろう。そうなると、彼は偽って付き合っていたことになる。彼は端から見ても母に夢中で、その執着ときたらぞっとするくらいだった。母は海星に元々深い愛情はなかったのだろう。母の愛は父と私にだけあったのだから、それは身内の欲目かはたまた願望なのかも知れないが。真実は母にしか分からない。それもまた実際には正しいかは分からない。なぜなら、人は自分の知らない自分があるように、その心理は深奥にあるのだから。  結局、海星に愛想を尽かした母が、別れを切り出した。  二人の結末を聴かされていなかった私は、突然家に押し掛けて来た海星に起こされて、すっかり懐いていたこともあり彼に駆け寄った。そう、夢の冒頭だ。ーーそして、事は起きた。  夢は、何度となく同じ場面から始まり、海星に首を絞められている所へ母が現れるというものだ。  だが原稿では、ここから先の全てが違っていた。海星に手をかけているのは、私自身の十本の手指だった。狂気を孕み、興奮しいる私が海星の膝を跨ぎ馬織りになって、彼の首を締めている。ーー原稿を読むうちに、手が、その感触を覚えている気がした。  不思議と美咲の手の感触よりも鮮明に。  海星のほうも、ただやられっ放しでいる筈もなく反撃に出る。渾身の力で私を押し除け、覆い被さり掴み合いの上に殴り合った。大の男達が殴り合いをしているのだ、家にいて気づかない筈はない。当然、母とその連れの男が顔を出した。  連れの男も私に加勢し、どちらが間男でないのかを海星に知らしめるためだけに、男は参戦したのだ。二人掛かりともなれば、どちら側が劣勢かは火を見るより明らかで、海星は躯を横たえたまま動かなくなった。息をしているかさえ分からない。  腹這いで倒れている海星は、着込んでいる服の所為もあって肺からの空気の出入りを見定めることもできない。そんな彼を見ていた男は少しずつ後ずさり、顔色なくして出て行った。母は、蒼白い顔をして私とぴくりとも動かなくなった海星を交互に見下ろす。  母の震える声が、微かな声で呟いた。 『お父さんなの……海星は、貴方の……』  私は目を瞠り、母は、とうとう狂ってしまったと思った。海星と私とでは十五歳しか離れていないというのに、そんな現実を歪曲してまで創れるものではない。常人ならできないことだと。  母はじっと、憐憫な目を向けてくる。その視線に耐えられず、『やめろ』と私は怒鳴った。母の強いところなんて一度だって見たことがない。しかし、この時は違った。  彼女は家に灯油を撒いて火を放ち、『常慈、私も一緒だから』と言う。私は生まれて初めて、母親の懐に抱かれてその温もりを感じたのかも知れない。  原稿は意図的か、まだ続きがあるのか、ともかくそこで話しは終わっていた。  確かに二十年前、母は火事で焼死している。それは間違いようがない事実だ。しかし私には、その火事の前後の記憶が抜け落ちて、詳しい事情を知らないのだ。私を診察した医師の診断では、精神的なショックによる記憶喪失と診断。その為に、当時は警察からの事情聴取で、記憶喪失を偽って火を放ったのは私ではないかと容疑をかけられた。  幸か不幸か、焼失した現場から灯油タンクに付着した母の指紋だけが残されていたことで、私は救われた。取り調べを受けている最中、もう名前は忘れてしまったが、一人の年配の刑事に質問されたことが未だ耳に付いて離れようとしない。それは、灯油タンクは十八リットルと重く、母一人で取り扱うこともできたであろうが、母以外の指紋が残されてないのはなぜかということ。それから、母がなぜ無理心中を図ったのか、その動機が見当たらないという二点においてであった。今思えば、刑事の言うことは至極最もで口を挟む余地もない。結局、無理心中を図った母が火を放って焼死したということで事件の幕は閉じた。私は今もなお、その当時の記憶を取り戻せていない。  この原稿に書いてあることが真実ならば、海星の遺体はどうなったのかということだ。あの火事で見つかった遺体は母一人だったのだから。何より、死んだ人間に原稿が書ける筈はない。私が質問することを予期したいた沢木は、口述を始めた。 「死んだのは作家井伏海路で、海星は生きているわ。気を失っていた彼は、気がつくと火の海の中にいた。もう、慌てて命からがら家に帰って来たの。その時のことは忘れようとしても忘れられないわ。衣服は焼け焦げて……今も火事のときの火傷の跡が手足や背中にも残っているのよ。ーー彼は生きて帰って来たというのに、何かに取り憑かれたように原稿へ向かったの。それまでずっとスランプだったというのにね。それが、途中から痛めた右手の為に動かすのも辛そうにするの。だから、傍らにいた私が口頭で伝える彼の言葉を綴ったのよ。不思議と、初めて彼と一体になった気がしたわ。だから貴方にお会いしたときに話したのよ。これは偽りではなく、魂が呼応したとでも言うのかしらね。私は作家井伏海路になった気さえしたのよ。彼を理解した。ーーいいえ、それは奢りね。ほんの少し知ることができたように思うわ。貴方はこの二十年、暢気に生きて来たのでしょうね。今、海星がどこにいるかご存知?」  首を横に振ることが、今の私の精一杯の意思表示だった。 「貴方が努めている病院の精神科病棟に入院していたわ。貴方の職場だというのに気づきもしないで、よくのうのうと生きて来られたわね。原稿を書き上げた彼は、その後二度と筆を持とうとしなかった。海星自身も生きる気力を失って死んでいるも同然だったわ。母や私たちのことが目に入らないの。口を開けば、『常慈、お前じゃない』と言い。次に、『美智子』と貴方のお母様の名前を口にするの。でもね、この二十年近く、そんな病んだ彼の世話をしてきたのは他でもない、私たちの母なのよ」 『常慈、お前じゃない……』と『美智子』の言葉に、何かが私の脳裏を横切り、決しては開けてはならないバンドラの箱に入った記憶を呼び覚まそうとしていた。けれど、私の中のもう一人の私が、思い出していけないと警告を発する。思い出せば、安穏でいられないと。 「私達家族だけが、この長い年月を苦しんできたのよ。妹は、美咲は初めのうちは知らなかったの。つまり出会うべくして貴方たちは出会った。妹に打ち明けたのはこの数ヶ月前のこと。彼女は随分苦しんでいたわ」  薄い皮膜一枚に覆われた真実が、もう少しで見える気がした。生と死が表裏一体であるように、我々人間の奥底に潜む顔もまた表裏一体なのである。なぜなら、相反する二つの顔を切り離すことはできないのだから。二面性は誰しもが持っているもので、それが意識下か無意識下において露になる。私の中にも無論それらはあるのだ。現に今、真実に蓋をしようと躍起なる己の根底には、既に気づき始めているものに目を瞑ろうとしている狡い一面が見え隠れしている。知れば、生きるに値しないとばかりに。 「原稿が真実だとは、私にはどうしても認められない。だって、海星は気絶して気がつけば火の海だったという。ならば、その間の私達のことを如実に語ることはできない。更に誰が火を放ったのか分からないというのに、彼はなぜ原稿にできたのか疑問が残るでしょう」  私は醜悪にも、悪足掻きを続けた。 「確かに、それは想像でしかないわね。でも、深く貴方たちと関わってきた海星にとって、それは雑作もないことなのよ。見て来たように語っていたわ。信じられないというのなら、もう一つ真実を話して聴かせてもいいわ」 「やめてくれ!」  私は咄嗟に、それ以上は聴きたくないと頭かぶりを振り拒絶する。だが、沢木は私を無視して話しを終わりにはしなかった。原稿も沢木の話しも、真実であって真実ではないと意識下か無意識下か最早判然としない中で否定し続ける私を、見透かしたように一瞥をくれて。 「海星のDNAを受け継ぐのは、常慈さん、貴方一人りなのよ。鑑定してもいいわ。私達姉妹は母の連れ子なのよ。海星は母と出会う以前に好きな人がいたけれど、彼女は海星の起伏の激しさについていけなかったのじゃないかしら。そこはあくまでも推測に過ぎないけれど。それが、きっと貴方お母様のことなのだと、原稿を読んでそう思ったの。昨夜、海星が病院で息を引き取ったわ。最後の言葉も、『常慈、お前じゃない』と言っていたそうよ」  私は愕然とした。沢木は寡黙にも、その後は何も語ろうとはせずにバスルームへ行きかけて、椅子にかけたワンピースと下着を手にする。どちらも紅い色が付着していた。  初めは血かと思ったが、直ぐにワインだと気がついた。もしかすると、昨夜酔った私を介抱して付着したものではないか? 彼女は、だから裸体だったのだと頷けた。  だが同時に、沢木は一体に何をしに来たのだろうかと疑念が湧く。母と娘の復讐というにはあまりにもお粗末な語りだっただけに、私は違和感を覚え、ある一つの物語が頭に擡げた。  沢木が私を陥れるような女と決めてかかっていたのは、外来で出会った日からこの奇妙な空気感に取り憑かれていた私のフィルターを通してであって、真実を恐れた己の邪な心が、事実を歪曲して見ていたのではあるまいか。  そして再び、『常慈、お前じゃない』と苦痛に満ちた海星の声が脳内を駆け巡り、私の十本の手指が小刻みに震える。私の記憶よりも鮮明に、この手は無情にも覚えていたのだろう。薄い皮膜がとうとう剥がれ落ちて、私の醜い裏の顔と共に真実が見えた。指に力を加え爪が白い皮膚にじわじわとくい込む様を、絞めながらも恍惚としているのは私自身だったのだと。そうして、母は息絶えていた。傍らに立っていた海星の焦燥しきった顔がまざまざと甦った。  海星は原稿をとおして、息子の私を庇ったのだろうか。最愛の人を手にかけたのは、己でありたかったのだろうか。義理の娘は私への復讐を果たしたかったのだろうか。それとも、海星を想ってした行動なのだろうか。疑問や猜疑は尽きないが、母をこの手で殺したという一つの真実を残して、あまりにも陳腐な物語は幕を閉じた。  室内に一人残された私は、海星の残した原稿の最後のページに、「物語はかくして始まる」と綴り終えて、開け放した窓から身を投げた。 (了)
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