第2話 夢

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第2話 夢

 森崎は訊いてもいないのに、彼女のことをペラペラよく喋ってくれた。  僕たちの理数特進クラスはA組で、彼女は文系特進クラスのH組だということ。A組とH組は始めと終わりの関係で、その距離は物理的に遠い。  知っての通り、漢字テストは入学してから毎回一位だということ、そして家は僕の二駅先で······ってなんでそんな個人情報知ってるんだよ? 「えー、だってさ、プリンセス、有名だもん。白雪姫みたいだよな。雪のように白い肌、林檎のように紅い唇」 「なんか失礼じゃないのか?」 「なんで? いいじゃん、普通でしょ? 綺麗な子に男が惹かれるのって。まして彼女、真面目だから男遊びもしないし。みーんな、彼女には手を出せなくて見てるだけ。フェアプレーってやつだね」  停車していた電車が走り出す。  次の駅は学校だ。ポケットに単語帳をしまう。ここにはぐちゃぐちゃの『憂鬱』も入っている。僕に『憂鬱』はいらない。 『憂鬱』の次に僕の前に立ちはだかったのは『陰翳(いんえい)』だった。谷崎潤一郎の、日本の美を語った名作らしい『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』。現国の教師は、これを機会に覚えようと言った。これは必ず次のテストに出すと。  どうも聞いていると教師は谷崎潤一郎が好きらしい。『細雪』がどうの、と話をしている。一部の女子が「『細雪』だって!」と小声で盛り上がってる。僕には訳がわからない。  押し黙っていると隣の森崎が「谷崎潤一郎が美青年になって出てくるマンガがあるんだよ」とわざわざ教えてくれる。いらない情報、ありがとう。  残念ながら谷崎潤一郎は守備範囲外だし、京都の建築物の陰翳が作り出す『美』にも興味が無い。 『陰翳礼讃』にまったくもって興味が持てない。  仕方がないので単語帳を一枚取り出す。 『陰翳礼讃』。裏返して『いんえいらいさん』。れいさん、ではない。教科書の文字を見て、書き違えないように文字を連ねる。  ――彼女も、漢字の単語帳は作ってるんだろうか? そうしたら、彼女の単語帳にも『陰翳礼讃』が入ったかもしれない。  なんて、馬鹿げてる。  そんなことを考えたってなんにもならない。漢字テストで彼女を抜くことを考える。あの紙の一番上に自分の名前があり、二位に彼女の名前がある。  そして僕は、彼女自身のことなんか考えている余裕がない。あの紙の上の名前、それが僕のライバルだ。  ◇  昼休みに購買にジュースを買いに行くジャンケンに負けた。  幾つになってもこんなこと、と思いつつ、男同士、つるんで自販機に行くのもなぁと思う。それはそれで寒い。  購買と自販機は二階ラウンジの一角にあって、ラウンジからは窓の外がよく見える。  秋風。  そろそろニットのベストじゃ涼しい季節だ。長袖を出しておかないと、と思う。クリーニングに出されて、タンスの中にあるはずだ。季節の移り変わりは早い。  自販機で立て続けにジュースを買っていると、後ろに女の子が二人、並んでいた。一人はまったく知らない子で、もう一人は大西さんだった。  僕は想定外の出来事に、思わずフリーズしてしまった。  大西明音が、目の前にいる。  黒くて長い髪に白い肌。今日は唇の血色も良くなって、どちらかと言うと赤いくらいだ。 「あの、昨日は本当にありがとうございました。ご迷惑おかけしちゃって」 「いや、僕は何もしてないから」  声がうわずる。 「単語帳も拾ってもらっちゃったし。あれが無くなると困ったんで、助かりました」  僕のポケットにはまだ漢字の単語帳が入っていた。大西さんのポケットにもまだ単語帳が? 昨日の英単語の? 「単語帳······」 「はい?」 「いや、なんでもない。昨日はあの後ちゃんと帰れた?」 「はい。本当にとても助かりました」  ぺこっと彼女は身体を折るようにお辞儀をすると、一緒にいた女の子と逃げるように去っていった。······なんか、もやる。  買ってきた無糖の紅茶を飲んでいると、こそっと森崎が話しかけてきた。 「実はさ、一人じゃ大変だと思って自販機まで見に行ったんだよ」 「早く声かけろよ」 「いいじゃん、大西さん、かわいい。羨ましいよなぁ、たまたま止まった電車に一緒に乗ってただけなのに」 「でも彼女は僕のことを知らないし」  森崎が、そしてその隣でなんとなく話を聞いていたらしい一ノ瀬が「それはないだろう」と呆れたように重ねて言った。 「なぁ、青葉。ちょっと話し合おうか」  一ノ瀬はさっきまで一日一話無料のマンガを読んでいたスマホを置いて、僕の肩に手を乗せた。 「休み時間にさ、教室の入口に他クラスの女の子、来てるじゃん」 「たまに」 「たまに、か。まぁいいや。あの子たち、何しに来てるか知らないの?」  考えたこともなかった。クラスの入り口にグループで集まって、わざわざ他のクラスから······くらいにしか。寧ろちょっと邪魔だよなぁとか。 「一ノ瀬、ダメダメ。中学から知ってる俺に言わせると、コイツ、そういうのてんでダメだから」 「信じられない」 「大西さんも知らなかったし」 「マジで? もう二年の冬になりかけてるのに?」 「うるさいなぁ。名前は知ってたよ。漢字テスト、いつもトップだろう?」  一ノ瀬は、こりゃダメだな、と言った。  午後の授業が始まりかけて、僕たちは散開した。  現国の授業が二時間、昼を跨いで行われるのは、この時間あるはずだった数学の教師が有給を取ったかららしい。  数学の教師は変わっていて、旅行が趣味だった。度々、有給を取って旅に出る。  十歩下がってそれはいい。教師にも有給が必要だし。でもその後の僕たちのことを考えてほしい。  明日は代わりに数学が三時間だ。そもそも二時間ある日にどうしてずらすんだよ、と数学が好きな僕でも思う。  現国二時間も地獄だけど、数学三時間もなぁ。  特に明日は予備校でも数学やるだろう。  ······数学がキーなんだ。数学ができないと志望校に受からない。そして、文系科目ができないと共通テストのある国立大学には行けない。  目指すもののためには犠牲を払わなければいけないと、わかってはいるんだけど。  ······時々、息が詰まる。中学の時に来ていた学ランのように。学ランからは解放されたというのに。  ◇  朝は一緒でも帰りは森崎とは別々。  アイツはああ見えて成績が良くて、特進にいながら吹奏楽なんかやってる。朝練は行ったり行かなかったりらしいけど、なかなか上手いらしい。  たまに定期演奏会に呼ばれるけど「青葉は来ないよなぁ」とスルーされる。  そういう時、ちょっと胸が痛む。  別に音楽は嫌いじゃない。まして流行りのアーティストのライブとかじゃないんだし。  練習を聴いてると、知ってる曲の吹奏楽アレンジで、つい口ずさむことがある。  わざわざ口にしないだけで、勉強中も音楽を流すことが多い。その音楽が耳に入らない時、それが本当に集中してる時だ。気がつくと、プレイリストにあった曲がごっそり飛ばされてる。  違う、飛んでるんじゃない。意識が飛んでるんだ。飛べば飛ぶだけ集中してるってことだ。  それくらいの気持ちでいないと成績は上がらない。学校では内申点だけ気にしていれば良くて、大切なのは模試の全国順位だ。大学入試の(ライバル)は日本全国が対象だ。  そんな生活に疲れないかと言えば嘘になる。  でも僕には夢がある。大学に入って、宇宙物理学を専攻して、なんとかしてJAXAに入りたい。  これはあまり他人には話していない。学校や予備校の進路指導の教師や、親くらいだ。  この歳になって宇宙への夢を見てるなんて我ながら実に子供っぽいよなと思う。  でも、まだ見ぬ土地に憧れるから人は旅に出る。それと同じだ。  温泉旅行に出かけるのと、宇宙旅行に出かけるのが同じくらいの気軽さで行けるようになる、それが僕の夢見る世界だ。  シュリーマンは好きな物語だったホメロスの『イーリアスとオデュッセイア』は事実に違いないと信じて、あれは作り話だと言う人たちを横目に、実際、トロイアの遺跡を発掘、発見した。  笑われるかもしれない。  だから誰にも言わないんだ。
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