【掌編】駆け落ち

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エリザ――。 そう名付けられたその彫刻は、女性らしき名前ではあるけれどおよそ人の形はしておらず、つるりとした膨らみをいくつかと触れられるのを拒むかのような切り立った面をひとつ持っていた。 雨森彫刻美術館の広大な中庭に置かれたその彫刻の名前を私が知ったのは最近で、ミュージアムカフェでバイトを始めてからの二年間、その彫刻が話題に上がるようなことは殆どなかった。 雨森美術館の中庭は、小石を敷きつめた細い道や黒々とした広葉樹なんかでいくつかに分けられていて、私が水曜日と木曜日にシフトをいれているミュージアムカフェに面しているのは、エリザと、それから建物の三階ほどもある大きな灯台を有した「愛を知る彫刻」エリアだ。この灯台は、もちろん本物の灯台などではなくて全面がステンドグラスに覆われた塔のようになっている。美術館を訪れる恋人たち――少しそわそわとしていて、何か親密なものを二人の間に隠しているのですぐわかる――の多くは、この灯台の中の螺旋階段を上り、頂上にあるライトに灯をともすことを目的にしているようだ。だから灯台から少し離れたところに、他に置き場がなくて仕方なく、といった風に横たえられたエリザに目を向ける者はほとんどいない。  「雨、強くなってきたわね」 中庭が見える位置に置かれたテーブルを拭いて回っていた中里さんがカウンターに戻ってきた。中里さんは私と同じ曜日にシフトに入ることの多いパートさんで、どこもかしこもたっぷりと水を含んだような身体をしている。色が抜けて黄色みがかった茶髪には細かいパーマが当てられていて、場違いなほどに強いグリッターラメの入ったアイシャドウが、まぶたの皺を目立たせている。 「やあね、台風って。今どこ?九州あたり?」 私はエプロンのポケットからスマホを取り出すと台風の位置情報を表示させて中里さんに見せた。 「上陸するのは今夜らしいですね。こっちは直撃はしないみたいですけど、明日はあれそうです」 中里さんはため息をつくとカウンターに太い腕をのせ、頬杖をついた。饅頭のように柔らかい手の中に丸い顎が収まる。 「なっちゃん明日は休んだら?そんな日に来ないわよお客さんなんて。今日だってこんななんだし」 店内には雨を逃れてきた若い男性の二人連れが一組と、置物のような老夫婦、全身黒い服を身にまとった三人組の女性グループがそれぞれに適度な距離を保って座っている。空調はよく効いているものの、雨に閉じ込められたお店の中にはしっとりと湿った空気が満ちている気がする。自由な旅行客たちは、特に焦るでもなく、じっと雨音を聞きながらそれぞれに身を寄せ合っている。 「休んじゃうと今月ピンチなんで、明日も来ますよ」 そう返すと中里さんは心底同情したような顔で、苦学生は大変ねえと言った。 「ここの他に居酒屋と学食でもバイトしてるんでしょう?」 「芸大行くって決めたとき親とけんかしちゃったので」 それはもう恋だわね、と妙に納得した様子で中里さんは言うと、重そうな身体を起こした。雨に濡れた男女が一組、パタパタとお店に駆け込んできたのだ。カウンターは中里さんに任せ、私は手元のコーヒーミルを回しながら再び窓の外に目を向けた。雨は強くなったり弱くなったりを繰り返しながら、お店全体を覆い隠している。   ふと、エリザが動いたような気がして私はミルをひく手を止めた。窓を打つ雨粒はいよいよ大きくなり、先ほど入ってきた二人組が点けたのであろう灯台の灯がぼんやりとかすんでいる。その陰に隠れるように置かれたエリザの乳白色が、再びのそりと動いたように見えた。 「あらやだ、こんな天気だってのに松岡さんたら」 注文票を手に持った中里さんにそう言われ、私は動いたように見えたのはエリザではなく清掃係の松岡さんだとわかった。良く目を凝らしてみれば、白い雨合羽を頭から被り、灰色のバケツときれを持った老人が一心不乱にエリザを磨いているのが分かった。台風前の強い雨風に打たれ、何年も重力にさらされぐっと縮んでしまったかのように小柄な松岡さんは、それでもエリザを磨き続けている。 「ちょっと危ないわよね、私声かけてくるわ。台風も来るし」 そう言うと中里さんは持っていたコーヒーポットを置き、松岡さん、と叫びながら中庭に出て行ってしまった。軒先で大きく手を振りながらこちらを指さしているところを見ると、中に入るよう勧めているのだろう。松岡さんが白い雨合羽の裾をばたばた言わせながら立ち上がるのが見えた。
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