【掌編】駆け落ち

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松岡さんは、雨合羽から雨水をぽたぽたと垂らしながらカフェの自動ドアをくぐった。入り口に立ったままなかなか動こうとしない松岡さんを中里さんが後ろからぐいぐい押し込む形で無理やりカウンター席に座らせた。 「やだわちょっと松岡さん、合羽ぬいで頂戴よ。床がびしょびしょじゃない」 中里さんにそう言われ、松岡さんは困ったような笑ったような顔のまま遅い動作で白い合羽を脱いだ。薄いグレーのTシャツは胸元と脇のあたりが汗で濃い色に変わり、枝のように乾いて筋張った腕とは対照に、腹ばかりが膨らんで汚れたクリーム色のパンツに乗っている。固そうな掌で禿げあがった額を撫で上げると、指先に絡まった脂っぽい黒髪をぱらぱらと床に落とした。松岡さんからは、古くなった人間の匂いがする。 中里さんはあからさまに顔をしかめた。 「コーヒー、飲みます?」 私は先ほどのカップル用に入れたのが少し余ったポットを軽く持ち上げて見せた。松岡さんはポットと私のちょうど間辺りを見つめたまま上下に首を振った。頷いているのか、ただ揺れているだけなのかは分からなかったけれど、私はとりあえずカップにコーヒーを注ぐと松岡さんの前に置いた。松岡さんは頭を上下に振動させたまま右手にずっと持っていたらしい布切れをそっと広げると、意外なほどに繊細な手つきで、ゆっくりと、少しの間違いもあってはならないように折りたたんだ。ハンカチよりも分厚く、タオルよりも目の細かいその布切れはところどころ変色こそしているものの、松岡さんが身に着けているどの布よりも清潔だった。松岡さんは恐れ多い、といった風情でその布をカウンターの一段高くなったところに置くと、ずっと半開きのままだった口に器用にコーヒーを流し込んだ。雨の中で冷え切った唇は青紫色をしていて、口の端がぬらぬらと光っている。 「ここで働かれて長いんですか」 カウンター越しに問いかけると、松岡さんはこちらに目を向けた。言葉を探す、というよりは口の動かし方を長い時間をかけて思い出すかのような奇妙な間を開けて、松岡さんは答えた。 「四十年」 ひえ、と中里さんは大げさに驚いて見せた。大きな体が豊かに揺れる。ゆっくりと、頭の中にあるものごとを口の中で億劫そうに言葉に換えつつ、松岡さんは話す。 「昔は、そう、学芸員を、してました」 「あら、そうだったの?再雇用ってやつ?」 「あ、まあ、ええ」 「この国は年寄りをいくつになるまで働かせる気なのかしらねえ」 好きなので。松岡さんはコーヒーカップの中でそうつぶやいたようだが、中里さんには聞こえなかったらしい。松岡さんはカップを置くと中庭に目をやった。 激しさを増す雨の中に、エリザの複雑な形が白く浮かび上がる。松岡さんの瞳は、はっとさせられるくらいに真っすぐとエリザに向けられていた。 コーヒーを一杯飲み終え、松岡さんが帰った後、私はあの布切れがエリザを磨くのに使われていたものなのではないかと思った。
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