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翌日、台風はいよいよ上陸したらしく、朝から強い雨と風が容赦なく打ち付けていた。私は傘を諦め、レインコートを被ると家を出た。美術館までは徒歩で行ける。電車は運転を見合わせていて、復旧のめどはたっていないらしい。こんな日に観光客が来るものかとは思うけれど、ここで休めば来週の食費が厳しくなる。美術館を開けてくれているだけありがたいというものだ。美術に生かされたと思えば、こうして家計を圧迫するのもまた美術である。
おはようございます、と声を掛けながらミュージアムカフェの自動ドアをくぐると、慌てた様子の中里さんが駆け寄ってきた。
「ちょっと聞いた?事件よ、事件」
事件とは物騒だが、中里さんは怖がるよりはむしろ面白がっているように見える。
「盗まれたのよ」
「盗まれた?」
そう!と中里さんは鼻息荒くうなずいた。心なしか頬が上気している。中里さんは大儀そうに身体をかがめると、私の耳もとにささやいた。
「エリザ像が、いなくなっちゃったのよ!」
私は驚いて中庭に目を向けた。入り口からカフェに向かう途中、設置エリアを通っているはずなのだが、全く気が付かなかった。
「警察には届けたんですか?」
「それがねえ、まだなのよ。犯人の目星もついてることだしねえ」
中里さんはさも困ったというように頬に手をあてて、ため息をついて見せた。
「松岡さんよ。今日は無断欠勤してるみたいだし」
「それだけで犯人だなんて……」
「なっちゃんだって見たでしょう、昨日のあの様子。彼ちょっとおかしいわよ。私は絶対松岡さんが犯人だと思うわ」
「そうでしょうか……」
さすがに暴論だと思うのだが、中里さんは決して譲ろうとしない。なんだか生き生きしてさえ見えるのは気のせいだろうか。
「ね、ちょっと行って確かめてきましょうよ。松岡さんち、ここから近いからさ。ほら、あの下にコーヒー屋が入ってるアパート」
嫌ですよ、と答えると中里さんはええーと口をとがらせた。たっぷりとした肉に埋もれた唇は案外かわいらしくて、私は少しおかしくなる。年上の人を相手にするとつい忘れてしまうのだが、彼女にも若かった頃があったのだ。つまんなあいとこぼしつつ、仕事に戻ろうとする彼女に私は声を掛けた。
「中里さんって、いつからこの町にいらっしゃるんでしたっけ」
「あら、なっちゃんと同じくらいのときからよ。人に誘われてね、駅前のスナックで歌ってたのよ。もう潰れちゃったけど」
言ってなかったっけ?と首をかしげる中里さんに、私は、初耳ですと苦笑して見せた。歌手だったとは驚いた。
「別に歌なんてどうでもよかったのよ。あのママが誘ってくれたことがうれしくてね、一生この人についていくんだなんて思ってた」
中里さんは懐かしそうに目を細める。やたらラメの強い彼女のいつものアイシャドウが、古いスナックのステージでキラキラ光るさまを思い、私は少し見とれてしまった。
――好きだったの。
中里さんは照れたように微笑んだ。
私はなんだか中里さんのことを真っすぐ見ることができなくて、昔は細かったのかもしれない腰回りや、観客の視線を集めていたのかもしれない唇なんかを見つめていた。
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