【掌編】駆け落ち

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閉店時刻になるまで、案の定客はほとんど訪れることはなく、私たちはおしゃべりをしたり、それぞれにぼうっとしたりして時間を過ごした。雨風は予想に反して次第に弱まり、警報や注意報が周囲の町にばかり出されていた。台風の目に入ったのだろうか。相変わらず電車は動いていないようで、私たちは外の世界から切り離され、この小さな町の中で、分厚い雲に守られているような気がした。 美術館を後にすると、私は家とは反対に向かった。雨上がりの、湿ったアスファルトの匂いが立ちこめる坂を足早に下る。使われなくなり、途中で途切れた古い線路が私の横を走っている。重たげな雲の中で遠来がくすぶっているのが聞こえた。行き止まりで左に折れると、コーヒー屋が出てくる。二階はアパートになっていて、赤っぽく塗られた扉が四つ、間隔を開けて並んでいた。塗装が剥げ、錆びて赤茶けた階段が目の前に伸びている。私は逡巡し、それから階段を上った。 「松岡」という表札はすぐに見つかった。インターホンを押してしばらく待つと、はあい、というくぐもった声がしてドアが薄く開いた。私が何か言いかけるより先に松岡さんは、ああ、あんたか、と言うと私を部屋へ招き入れてくれた。 松岡さんの部屋は雑然としていて、膨らんだゴミ袋や投げ捨てられた空き缶、弁当のからなんかが、無造作に散らばっていた。玄関を入ってすぐの台所には汁が残ったままのカップラーメンや汚れた食器類が放置されていて、部屋全体に酸っぱいにおいを漂わせている。私はなんとか物を踏まずにいられるスペースを見つけると、部屋の中央へと目をむけた。 「あ、」 思わず声を漏らしてしまい、私は慌てて口元を押さえた。 ――エリザだ。 部屋の中央に置かれた低いテーブルに向き合うようにしてエリザは置かれていた。薄いカーテンから差し込むかすかな光に、乳白色の肌は煌めき、優しい影を落としている。ゴミ袋や丸められた衣服なんかに取り囲まれて、それでもエリザはまるでそこが彼女の居場所であるかのような完全さと充足とをもって、そこにいた。 「松岡さん、これ――」 「随分久しぶりじゃないか」 エリザに向き合うように座った松岡さんが言った。相変わらず頭がゆらゆらと上下に揺れている。 「昨日、お会いしたじゃないですか」 「俺はあんたなんか知らんよ」 松岡さんは相変わらずこちらを振り向かない。右手でそわそわと太ももをかいている。 私は何か言おうとして開きかけた口を閉じた。正面に向き合うエリザ像を見つめる。 もしエリザ像が表情らしきものを浮かべることができるとしたら、彼女は間違いなく松岡さんを見つめ、そして幸福そうに微笑んでいただろう。そう思えるくらいに、このワンルームの中央に向き合ったエリザと松岡さんは満ち足りていた。 私はそっと二人に背を向けると松岡さんの部屋を後にした。外は霧雨が降っていて、松岡さんのアパートを静かに隠していた。美術館に向かって、元きた道を戻りながら、私はあの乱雑な部屋の真ん中に置かれたエリザを思った。美術館の中庭に置かれている時よりも、彼女はずっと美しかった。  後日、館長が呼んだ警察によりエリザは回収された。館長には大いに感謝され、時給が五十円上がったのはありがたかった。話によると、翌日は台風が激しくとても大きな彫刻を運べないというので、一晩明けてからエリザ像は中庭に連れ戻されたそうだ。松岡さんはだいぶ認知症が進んでいたが、館長を含め誰もそれに気が付いていなかったらしい。一体どうやってあれだけの大きさの彫刻を運んだのか、本人も覚えていなかった。エリザが傷一つなく戻ってきたこともあり、松岡さんは起訴されず、清掃員をクビになるだけでおとがめなしになったという。 それからも、松岡さんはたびたび美術館を訪れては、時折腰から取り出したあの柔らかい布で、エリザを磨いている。あの台風の晩、狭いワンルームのアパートで、雨と風に守られながら、松岡さんとエリザがどんな時間を過ごしたのか私たちは知らない。
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