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   器用な手捌きでたこ焼きを作る面長な店主は、肥大した苦悩を抱えていた。 「本来、うちのたこ焼きは大粒のタコが入っていることが売りなんだけど、最近はタコの値段が高いから、大きなタコを入れるとたこ焼き自体の値段が跳ね上がっちゃうんだ。だから最近は、仕方なくだけど変わり種で勝負しているんだよ。例えば餅と明太子とチーズを組み合わせた、モチメンタチーズとか。後はタコの代わりに蒲鉾を入れたり、環境に優しいたこ焼きってコンセプトで、椎茸やネギを入れたベジタブル焼きなんて現代的なたこ焼きも作っているんだ。これが意外と好評で、下手すりゃ普通のたこ焼きよりも売れたりするんだ。  だけどさ、本来たこ焼きってのはタコが入っているからたこ焼きって名前をしているわけであって、変わり種で勝負するのは、なんというか、虚しいものがあるんだよ。そうだよな、芽衣子」  芽衣子さんはたこ焼きの生地を混ぜながら、うなずいた。それから店主は自らの想いを語った。 「俺はやっぱり、タコが入ったたこ焼きが好きなんだよ。  高校の頃の話だけど、俺の地元の住宅地に、ポツンと一軒のたこ焼き屋があったんだ。そこは変わり種なんてなしで、本当にシンプルなたこ焼きだけを売っていた。俺はテストで点が良かった日やサッカー部の試合で勝ったときに、そこでたこ焼きを買って食べたんだ。外はカリッと、しかし中はトロッとしていて、大きなタコが口の中で踊るんだよ。ソースとマヨネーズはそこまで主張せず、たこ焼き本来の生地の甘さが味覚を刺激してくれる。初めてその店でたこ焼きを食ったとき、俺は衝撃を受けたね。こんなに美味いたこ焼き食ったことねえよって。  それから大人になって、一度はサラリーマンをやっていたけど、高校のときに食べたたこ焼きが忘れられなくてさ。俺もたこ焼きを作りたいって思って、数年前から鉄板の上でクルクルとたこ焼きを泳がせているわけだ。  もちろん収入はサラリーマン時代の方がいい。だけど、やりがいは圧倒的にたこ焼き屋の方がある。俺は今、好きなことを仕事にできている。それだけで幸せなんだ」  店主の話に、芽衣子さんはただただうなずくだけだった。とても物静かだが、主人の情熱に理解がある人らしい。 「まあ、結局何が言いたいかって、人生は一度きりだから未練はないほうがいいってことだな。悔いのないように生きる。それが一番大事だ」  ほい、出来上がり。面長な店主は僕にシンプルなたこ焼きを作ってくれた。元来の味を忘れたくないからと、トッピングはソースとマヨネーズのみだった。  僕はカウンター席で出来立てのたこ焼きを頬張った。外生地はカリッとしっかりした歯応えがして、それでも中は柔らかく、トロトロ感で溢れている。そして、裏切らない大きなタコが主人公として僕の口の中で踊ってくれる。ワルツかソーラン節か、もはやタンゴか。フラメンコでもなんでもいいが、至福の味とはまさにこれだろうと僕は食べて納得した。それから、店主が言った言葉も一緒に噛み締めた。 『未練はないほうがいいってことだな』  二十三になった僕は、ようやく社会人としての一歩を踏み出して、徐々に自分の位置を確立している。社会人になって数ヶ月が経つが、今のところは順調だった。もちろん、社会は残酷で大変なことも多々あるが、僕は僕なりの生き方で踏ん張っているつもりだ。今は一緒に飲む同僚がいて、オフの時間には大学時代からの友人がいるから一緒に遊ぶことができる。それに、疲れたときや自分にご褒美を与えたいときには、このたこ焼き屋に寄ればいい。周りを見渡す限りは、これから先もなんとかなるだろうと僕は思っている。  ただ、いくら美味しいたこ焼きを食べても、同僚と上司の愚痴を連ねても、友人と居酒屋で飲み明かしても、決して解決できない問題があった。僕はそれを乗り越えない限り、悔いのない人生は送れない気がした。充実していると思っていた道のりだが、それは後ろを見返していないだけだった。僕はそろそろ、少し遠くなった過去を見つめ直すタイミングに差し掛かっているのかもしれない。  冴えない空は現を映し、淡い夏は路肩に咲くひまわりの花とともに揺れる。そしてたこ焼きのソースの香りが口の中に広がり、僕は懐かしい気持ちになる。曇天、夏休み、たこ焼き。それらが組み合わさったあの夏、僕は確実に恋をしていた。それから僕の心にはずっと、一つの未恋が宿っている。
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