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そこここに水溜まりのある石畳の狭い路地は、薄暗いナトリウムの街灯に照らされてところどころがオレンジ色に反射している。
「ここか。」
娼婦街の一角だというのに立ちんぼは一人もいない。行き止まりというよりも腸を撫でるような異臭が人を遠ざけているのだろうか。大きく赤い尻尾のネズミの死体が側溝に横たわっている。
通りの奥の左側。半分腐って白いカビのようなものが付着している扉を叩くと錆びた小窓がジャキッと音を立てて開いた。ゆらゆらと蝋燭の炎が暗闇に揺れている。
フッと小窓の奥に息を吹きかけて、煙が漏れてきたところで
「R」と囁いた。
不審な手紙が舞い込んだのは一週間前だった。
「あなたの探しているものがある。そう、魔法の絵の具。」
その紙面はベタと黒かったがところどころに見たことのない不思議な輝きがあった。
湿気の多い廊下の奥の部屋は生暖かい空気で澱んでいた。まるで地下の化学実験室の様にも見えた。背中を向けている老人は煤けた鏡でこちらを見ているのだろう。いくつかの蝋燭の光が壁を照らしている。
「Rさんだね。多分気にいると思うよ。この壁は一部それで塗られている。試し塗りってやつだ。」
あの招待状と同じ怪しいテカリがいくつか漂っている。
「危険で高価だが価値はあるだろ?」
「危険というのは?」
「毒性があるってことさ。それに、」
「それに?」
「空気に触れることによって長い年月で変化する。面白いだろ?」
寒くはないのに微かに息が白い。
「描いて終わりってことじゃないのか…、」
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「あの当時、『トゥルプ博士の解剖学講義』で名を挙げたレンブラントは有頂天だったに違いない。裕福な家の娘を嫁に迎え、仕事も増えてまさに順風万歩。」
教授はズレた四角い黒縁のメガネに手をかけた。
「だが、同じことばっかりでは飽きられてしまう。いつの時代でもだ。」
「だから、新しい何かを探していたというのですね。」
インタビュアーの私を覗き込みながら彼は小さくうなづいた。
「特徴はその精密な描写と光のコントラスト。」
「光と影ですよね。」
「そう。彼の大いなる特徴だ。」
「教授。そんなことはどこにでも書いてあるし、誰でも知っています。」
絵画番組でモデレーターをしている私はちょっとからかわれた様に感じた。真剣でおちゃらけた番組じゃないという自負は持っているのに。
「ふふ、拗ねないでくれ。決しってちゃかしている訳ではないよ。こう見えても、番組のファンだし、君の出演を毎回楽しみにしている。ちょっとズレた意見がまた面白くてね。勉強させてもらっているよ。まして今、その本人が目の前にいるんだから。」
「はぁ? それどういう意味ですか?」と怒った表情を見せながらも私は年甲斐もなく少し赤くなった。教授はそこそこの歳ではあるが、若い頃はそれなりのイケメンだったに違いなし、センスだって悪くない。事実、この教授の部屋はクリーンで置物のさりげなさがいい感じだ。そう、昭和の匂いを感じさせるのにモダンなところがちょっと憎い。
「画家の描くものは自らの人生を投影することが多い。」
「そう…ですよね? でも、こんな他人の肖像画にでもですか?」
「わかりにくいからこそと言うこともある。」
「そんなぁ、ねじれてる。」
「彼の実際の人生もそうだったんじゃないか?」
私はハッとした。
「光と影。明と闇。ハレと憂鬱。表舞台と裏舞台。だから…、」
「そう、だからあんな手紙が彼の元に紛れ込んだんだよ。きっとね。」
x
少し埃が積もっているテーブルにはコルクで栓をされた握り拳大の透明な瓶が1つだけ置いてあった。
中の液体は蝋燭のゆらめきに渋い光沢を時々重く放っている。
「今あるのはこれだけだ。そう、世界中でここにだけ。生かすも殺すもあんた次第だが。」
手に取ろうとすると男が遮った。
「支払いが先だ。そうだろ?」
ヒヤリと冷たいその瓶は想像よりも重かった。
翌日、大きな制作中の絵の前に立ってそれをどこに使おうか考えていた。大量にあるわけではない。
「あなた、今回の絵は今までになく大きいのね?」
妻は咳をしながら目を細めて見ている。立っているのもつらそうだ。
「結構暗い部分も細かく描くんでしょう?」
「さすが、わかっているな。それより…、」
「あなたの絵が好きなの。」
絵の具に鼻を擦り付けるぐらいに近寄って観察している。
「俺はそんなに近くでは見ないぞ。」
「あら、もう老眼が始まっているの?」
「ばかな⁈」
お互い笑いながら見つめ合うと、彼女はまた大きく咳き込んだ。
「ほら、絵の具の匂いを嗅ぎすぎだ。」
「ううん、ちょっと風邪気味なの。今日も大事をとって早く寝るから、あなたも早々に切り上げてね。」
彼女がいなくなると、私はポケットから例のものを取り出して、試しにここだという部分に塗ってみた。
既に描かれている部分に重ねて塗ると、妙に艶かしい感じが筆を通して伝わってきた。
「あぁ。」思わず声が漏れた。
アトリエの灯りを落とすと塗った部分が月光を微かにだが怪しく反射している。
製作は順調に進んだ。しかし、妻の容態はゆっくりだが日に日に悪化していくのが心に痛い。
妻のことを伺うべく医者に寄り、その帰りがてら彼女の好きなマーブルのマフィンを買った。
紅茶を用意してベッドに行くと彼女が微笑んだ。
「ありがとう、あの薬ちょっと舐めてみたの。」
「え?」
「まずい薬ほど効くって。処方がわからないからちょびっとだけだけど。」
彼女のナイトテーブルにはあの絵の具の瓶が…。
それから間も無くして彼女はこの世を去ることになった。
x
教授はいつの間にか夕陽が差し込んでいる窓脇に立って外を見ている。
「妻の死は肺炎とされていた。だが、それは定かじゃないんだ。」
「先生、まさか…。」
私の疑いの眼差しをしっかりと受け止めてくれている。
「ギ酸鉛による殺人だっていうんですか?」
が、うなづきかけて彼は首を横に振った。ゆっくりと。
「誰にもわからない。故意になのかどうか。事故だったとしても真実はわからんのだよ。ほら、整理整頓ができなくて散らかっているところでも、本人はどこに何があるか知っている。例えば、彼女はたまたま薬袋のそばにあった例の瓶を見つけたのかもしれない。」
「先生は綺麗好きですよね。」
「はは、他人の目が届くところはね。」
苦笑いしながら私のことを疑ってみている。
「わ、私はもちろん綺麗好きです!」
彼は右目の眉毛を上げながらコホンと小さく咳払いをした。
「ただ、あの『夜警』の完成後に彼の人生は急変したんだ。世界三大絵画と呼ばれるものになったのにだ。」
「あのことが原因って言いたいんですか?」
教授の眼差しがメガネの奥で深みを増しているのを背筋が感じている。
「あの…、」抑えきれない感情が湧いてきている。
「?」
「現地に飛びませんか?」
「今『夜警』は鋭意修復中だ。」
「え? それって願っても無いチャンスってこのことですよね?」
口がうまく回らず考えるよりも先に携帯に手が伸びていた。
「おい。」
彼のおどけ困った笑顔が爽やかに映った。
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「何様だと思っているの! あなたはたかだか一番組のコメンテーターに過ぎないでしょ? 十年早いのよ、年増でひよっこのくせして! 出演しながらもディレクターをしているからって図に乗るな!」
CPの言うことは絶対だった。自分で海外出張を決定する前にまず彼女に相談する。それが普段の手続きだった。でも、年増でひよっこなんてひどい。自分は年増のクイーンなくせに!
「時間がないんです。修復もそろそろ終わるのではないかと聞いています…、」
そう言うと脇に立っているプロデューサーが宥めてくれている。
「彼女の判断は間違っていないと思いますが。面白い視点だと…。」
「うるさいわね、お前まで。それが大発見になるなんていう確証がどこにあるの? 推測にすぎないでしょ? だいたいどれくらい絵画のことがわかっているのよ。視聴者に指を刺されそうなことはしない、大前提でしょ。そんなこともわからないの?」
ドンとCPはテーブルを叩いた。確かに彼女はやり手でいろんな看板番組を失敗無く生み出してきた。間違ってはいない。
「新しい担当者を考える時なのかもね。もっと素直で従順な若い子を。」
頭を下げながら瞼に涙が滲んでいるのを両手で覆い隠した。確かに私はもう若くない。
廊下に出るとプロデューサーは大きくため息をついている。
「すいません。私の勝手な行動でご迷惑をかけて。」
彼はなんとなく流し目で私を見ている。
「あのな。ディレクターはお前さんくらいわがままな方がいいんだよ。」
「え?」
「言いなりの奴に何ができる。つまらんものしかできないだろ?」
彼にも怒られるのかと思っていた。
「なぜ、テレビが面白くなくなっちゃったと思う?」
「それは…、」
「視聴者がうんうんって安心して見るものだけを提供しているからだよ。時代錯誤もいいところだ。好きなことをやっていつでも好きな時に見れるネットがもてはやされるのもわかるけど、その時間を逃すと見れない心がこもったものには、もっと価値があると思わないか?」
彼の表情はどこか申し訳なさそうでもある。
「ま、そんなことを思っていても、それを口に出せない俺がいる。情けない。」
私はどんな表情を返していいのかわからなかった。
「もっと演出者を大切にするべきだよな。ま、それだけに監督と呼ばれる人間には負担がかかることになるけどね。だがやりがいはあるだろう。自分の作品として胸を張るわけだから。そして、それを支えるのがプロデューサーであるべきだと思うんだよ。いや、もちろん金の計算はするけどね。」
少し先を歩いているPは振り返った。
「俺はお前に一目置いているつもりだ。若いディレクターを牽引していって欲しいと思っている。面白いものができれば、そうエスプリのあるものができれば、みんなと共に前進できるだろ。それが監督とプロデューサー間の話の要であるはずだ。本来は…ね。」
彼は残念そうに両手を広げた。
廊下が恐ろしいほど長く感じた。
「コーヒーでもどうだ? 俺が奢るよ。」
すりガラスの扉の向こうはちょっとした休憩コーナーがあり、いくつかの自動販売機とテーブルが置いてある。最新のコーヒーマシンが並ぶ隅っこに申し訳なさそうに昔ながらの簡素なやつが鎮座している。彼はそこに刺さっているふにゃふにゃの茶色いプラスチックの容器を2枚重ねてとった。
「時々こいつが無性に飲みたくなるんだ。」
私はインスタントのコーヒーなんてここ数年飲んでいなかったし、選ぶなら豆から引いたものを選ぶ。
トンと目の前に置かれたカップから湯気が上がっている。奢りってこれ? ダサいなと思い苦笑いしながら薄茶色の液体を啜った。
「!」意外と美味しい。
「だろ。懐かしい味だ。」
インスタントで砂糖とミルクが入って今時いけてないものだけど、意外に。
「あのCP、昔は麗しいブラックバードって呼ばれていたらしい。」
「ブラックバード?」
「そう、名前そのもの。それこそ怖いもの無しで突き進んでいた。いくつものハッタリをかましてムチャを承知でいろんな番組を作ってきていたんだ。」
「でも、どうして…、」
「以前はそれが罷り通ったんだよ。ちょうどコロナと重なる前あたりからいろんなことが難しくなってきた。男女平等とかLGBTとかなんだかんだ人権尊重とか。いや、確かに重要なことに違いはない。しかし、とにかく安全な最大公約数を求めるようになってきちまった。特にテレビ局はね。その対局にあるのがネットだったりするけど、それもどうだか。奴らはやり放題を自由と勘違いしているところがあるだろ?」
「確かに、今のテレビは視聴者を気にするあまりか窮屈さを感じますね。」
「彼女ももうすぐ定年だからこのまま安泰に最後を迎えたいのかなぁって感じる。ブラックバードから白鳥になって退職したいってね。」
「…。」
「俺としては、ブラックバードのままでいて欲しかったんだけどな。」
いつの間にかカップは空になっていた。
「今度は私が奢りましょうか?」
「いや、こんなに体に悪いものいらないよ。」
「なんですかそれ!」
彼はカップをグチャと潰してゴミ箱に放り投げた。
「行こう。」
立ち上がったPの背中に声をかけた。
「やっぱり…、今回は行くのをやめます。結局みんなに迷惑がかかるってことですから。」
「有給をとって行ってきたらどうだ?」
「え?」
「いや、撮影隊は連れて行かない。必要となれば現地で手配できるだろうし。自分の携帯で撮っても逆に臨場感があるかもしれない。つまり、個人的なロケハンくらいに考えてだ。もう判断は現地でする。」
嬉しい言葉だったが、私は首を横に振った。迷惑がかかるのは目に見えている。いろんな人を巻き込んで取り返しがつかないことにだってなりかねない。私も決して若くないし、こういう時代なんだと自分に言い聞かせるのが正解なのかもしれない。くそ!
「教授に断りの、というか、実行不可能なお誘いでしたとお詫びの電話を入れます。」
プロデューサーは、また大きなため息をついた。
「すまん。残念だが俺の力不足だ。」
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机の上の携帯が震えている。
「もしもし。…、ああ君か。でいつ行くことにしたんだね?」
耳元の声が冷静を装いながら震えている。
「そうか。…なるほど。」
丁寧な断りの挨拶の後、通話は切れた。
教授は入れたばかりのエスプレッソをぐいっと啜ると携帯のアプリを操作してハハっと独り笑いをした。
英語で書かれたメールの送信ボタンをクリックして小さなコーヒーカップに残った砂糖をスプーンで掬って口に入れた。
「イタリアじゃないのが残念だが…。」
スクリーンショットを撮り、それを送信した。
2分もしないうちにまた電話がかかってきた。
「先生、これは…、」
心なしか声が弾んでいるように聞こえた。惑いを隠せないようではあるが。
「勝手にこちらで手配したんだ。既にアムスの国立美術館とも話をしてある。いいタイミングだ。」
「明後日なんて…、」
明日のスタジオ収録の翌日、午前中の便だった。
「勝手で迷惑だったかな?」
「あの、そんな…、」
「レンブラントは光と影の魔術師と呼ばれているが、それだけじゃないぞ。その技法には彼のオリジナル、すなわち自由な発想と行動が伺えるんだ。わかるかな?」
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前日の収録は随分と時間がかかった。小さなミスが多発したのだ。
こんなんじゃないと言う焦り、いや明朝の出発のことが頭から離れなかったせいだ。番組の収録は毎週一回。だからこの突然の旅は5泊6日。帰ってきたら次の日にはまた収録が待っている。
よかった。長らく使っていなかったパスポートは来年更新でまだ1年ある。印刷されている自分の写真はほぼ10年前の私。今よりもずっと若く見える。いや、皺の数を数えている暇などない。昨日洗った下着がいまだに生乾きだ。ままよ毎日変える必要はないか…。幸い体臭臭い方じゃないし。ワードローブを開いてみてもなんだかこれという洋服がない。大抵コスチュームはスタイリストに任せっきり。もちろん、私の好みは言うけれど。いや、関係ないだろうと思いつつも、ディレクターでありモデレーターの肩書きを持つ私がセンス悪いなんて思われたくないし。普段の自分なんて適当でいいかって思っていた節がある。待って! だいたい向こうはどれくらい寒いの? 素敵なコートが…、無い。いや、そんなことで絶望するなんて、もう! 何もかもが突然すぎる。
細長い姿見に映る自分。他人のように慌てている。こんなふうに自分を意識したのは久しぶりだった。
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成田第一ターミナル北ウイング。2時間前には無事に到着。なんで羽田じゃないの? ってぼやきつつもなんとかキャリーバッグに収まるように徹夜で荷造りしてきた。厚化粧じゃ無いけれど、すっぴんではない。清潔感が大事。
教授は大きな電光掲示板の下で待ったいた。黒いスウェードのコートにダークなモノトーンの花柄のマフラー、思ったよりもダンディーな出立だ。
「荷物はそれだけかい? いや、たいていの女性は大きなスーツケースを持ってくるが…。」
どう言う意味?少し覗き込むと
「いやいや。」といいながら私のキャリーバッグも持ってくれてチェックインカウンターに並んだ。いや、並んだと言うよりもプライオリティーで待ち時間なしだ。
「あ、それは機内持ち込み可能なはずです。」
「手荷物はなるたけ少ない方がいいぞ。」
私の荷物は流れていってしまった。
「安心しろ、私はビジネスだが、君はエコノミーだ。」
「はぁ?」
「あたりまえだのクラッカーだろ。」
「教授。別に私はビジネスの必要はありませんが、言ってる意味が時々わかりませんが?」
「なんだ、同じ世代かと思っていたのに。」
「失礼な!」
「しかし、その伊達メガネ、なかなかいけてるな。」
「え?」
時々変なファンという人に追っかけられることが(もちろんたまにだけど)あるので、少しだけ自分の顔を隠している。ファッションというよりも。
「少しは切れ者に見える。」
「いい加減にしてください!」
流麗に見えていた教授だが、実は親父ギャグの塊だったらどうしよう。
機内では別々だ、よかった。
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『ただいまから、KLMオランダ航空アムステルダム行き864便の搭乗を受け付けます。』
そそくさとトイレから帰ってくる私を見て教授はすくっと立ってこちらを見た。
「零くん、じゃ、スキポール空港で。」
彼はビジネスクラスのオートマチックカウンターで地上職員に何か告げるとボーディングブリッジに消えていった。私の番はゾーン5となっている。80パーセントくらいの満席率ってチェックインの時に聞いていた。どちらにしろ登場の順番としては最後の方だ。
いよいよ私たちのゾーン5。多くはないが搭乗口に人が殺到する。搭乗券をセンサーにかざすが読み取ってくれない。隣のレーン人たちはどんどん流れていくのに、私の後ろにいる人たちの舌打ちが聞こえる。
と、ピーと赤い点滅がして地上職員が私をカウンターに導いた。パチパチとパソコンでチケットを確認しているようだ。アハ、うんとうなづいている。
「沢山様、プレミアムエコノミーにアップグレードされています。」
「?」
「素敵なフライトを。いってらっしゃいませ。」
ボーディングブリッジの先にある分岐点で足が絡まりそうになっている自分がいた。
「ど、どっち?」
スーマートな私のはずなのになにかがずれている。
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「お客様、到着でございます。」
「え?」
プレムアムエコノミーとかいう少し快適な座席。隣には誰もいなかったことですっかりリラックスしてというか、気が緩んで機体が浮き上がったその揚力に誘われてぐっすりと眠りに落ちてしまっったようだ。ぼんやりと瞼を開けると既に機内には人がまばらだった。
「沢山様、相当お疲れだったようで。有意義なオランダ滞在でありますように。」 キャビンアテンダントの笑顔にはどこかクスッという笑いが見えた。いけない、教授が待っている。
「ありがとうございます。」と会釈をしてそそくさに機内から出ると、彼はボーディングブリッジを出たところで待っていた。
「機内食はいけてたか?」
残念ながら食べていない。
「いびきがこちらまで聞こえてきたぞ。」
「んな わけありません!」
「メガネはどうした?」
「あ…、」
教授は動く歩道の上をスタスタ歩いていっている。どうせ安物だ。彼を小走りで追いかけた。窓の外はもう夕闇が迫っていた。
初めて乗ったテスラのタクシーはやたらと静かで教授の顔には街の灯りが時々反射して流れている。ハァというため息がすぐ傍で聞こえた。
「どうしたんですか? 寝れなかったんですか?」
「うん、どうしようかと思ってね。」
深刻な表情なのは遠くを見る眼差しから読み取れる。
「何か気に掛かることでも?」
「ああ。」
眉間に皺を寄せて携帯とにらめっこをして人差し指が携帯の表面を上下に行き来している。到着早々調べ物? 忙しい。
「タイ料理は好きか?」
「はぁ? 『夜警』とタイ料理が関係あるんですか?」
「いや、ないよ。晩御飯を何にしようかなと。」
呆れた。
「トムヤンクンとか大丈夫か?」
「教授!」
「やっぱり初日の晩はオランダ料理かな?」
「あー。」
「ティピカルなオランダ料理ってなんだ?」
「えーっと。」
「ほら、答えられないだろ。」
「…。」
「明日から忙しいんだ。まずは腹ごしらえだ。実は、初めてアムステルダムに来た時に行ったタイ料理屋を思い出してね。美味しかったんだよ。そこにしようかと。どうせ機内ではなにも食べていないんだろ?」
意地悪な顔をして私を見ている。
「教授!」
と言いながら、私のお腹がグーっと静かに街中を滑る車内に響いた。
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「じゃあ十五分後にレセプションで。そのままの格好でいいぞ。」
ひとこと余計だが、全てを見透かされているようで少しキモい。いや、なんだか暖かい。あーよくわからない。確かなのは、もっと堅い人かと思っていたのにそうじゃないってこと。ちょっと、そんなことに気を取られる私がどうかしている。これは、レンブラント『夜警』の秘密を探る小旅行なのだ。教授というツールを利用して、番組のテーマを探る。それが私のミッションだ。そそくさと化粧を直して部屋を出た。
鏡にはどこか嬉しそうな自分が写っているのをエレベーターの加速と共に感じた。。
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確かにレモングラスの効いたトムヤンクンはこれまでの人生のそれで一番美味しいものの1つかも知れなかった。明るい喋り好きの若いイケメン給仕君はウインクをしてくるし。
「へぇ、モテるんだな。見直した。」
「どういう意味ですか? っていうか、今頃わかっわかったんですね。」
「どうした、舌ったらずになって。」
どんどん皿が運ばれてくる。
「大丈夫、一品は小さいから。太らないよ。」
いちいちうるさい。
「で、明日はこの研究を二十年ほどしているイタリア人のおばさまに会うことになっている。」
「オランダ人じゃなくてイタリア人なんですか?」
「そう、有名な研究者だ。彼女がギ酸鉛のことを解析したんだ。」
「それって、最近のことなんですか?」
「ああ、二十年やっていて、つい最近わかったんだ。まさに、テクノロジーの進化。技術の進み具合もすごいが、それについていく彼女も相当なものだ。」
技術の進歩だけを褒めないところが教授らしい。
「なぜ、あの絵が明るく輝くのか。そして、渋い光沢を見せるのか。その一部が解明されたと言ってもいいだろう。」
確かにそうだ。レンブラントの絵は光と影の陰影。それはただ明るいところと暗いところを描いただけではないのだ。って、今まではそう思っていた自分だったけど。つまり、そこにさえ気をつけていれば誰にでも描けたに違いないとある意味タカをくくっていた自分がいた。周りの画家たちはそれをしなかっただけに違いないと。だが、
「レンブラントは、常に先を見ていた。というか、新しい物に挑戦しているとともに、表現に確固たるものの素材を惜しみなく投入していたに違いない。」
「確固たる物?」
「いや、それにはもちろん、試行錯誤があるのだろうけどね。なぜ、彼は自画像をあんなに描いたと思う?」
「それは…、」
「ナルシストだったからか?」
口を尖らせて首を振った。突然、教授は突然携帯を取り出してセルフィーを撮りだした。
「ほら、こっち向いて。」
いろんな角度から二人で映り込んだ。
「どれが一番いいかな? あ、これなんかきっと君の隠れた普段の顔だ!」
それは人に見せたくないような表情だった。
「教授!」
彼はにやけている。
「つまり、あれは言ってみれば、彼のセルフィーだよ。」
「いろんな角度からやいろんな表情?」
「それもあるだろうが。いろんな光線、さまざまな技法、あらゆるマテリアル…、」
「それを通すことによってテストしていたってことですか? そっか、対象物が1つなら比較もしやすいってことか。」
教授はサテーをもぐもぐしながらうなづいている。
「うん、腹八分目になるくらいが一番脳みそが活性化するようだな。」
「は?」
「これ以上食うのはやめよう。こんな時間だ。太るぞ。」
なんだかステルスなセクハラ発言にオヤジ、いや教授の脇腹を小手で突きたくなってきたが、それと同時にちょっとレンブラントが近くなったようにも感じた。
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赤い絨毯の廊下のどんつきが私の部屋だ。心持ち高い位置にある電気のスイッチをパチンと鳴らした。部屋は狭くもないが広くもない。天井が高いのが慣れないせいかちょっと気になる。大きめで少し高めのベッドにささっと洋服を投げ捨ててシャワーを浴びた。機内でぐっすり寝たこともあるし、ちょうどいいお腹具合でお目目はぱっちりだ。決して疲れは感じていない。あれ? これって実はよくないのかも知れない。アムスの今は夜。全然眠くないのだ。そういえば、ここまでは行き当たりばったりだったから、これからどう過ごすのかなどスケジュールが見えていない。
そんな不安に駆られながらも頭と体にバスタオルを巻いたままベッドに足を投げ出して座った。部屋の照明は間接照明だからか明るくはない。正面の壁には『夜警』がプリントされている。そうか、この絵はある意味オランダ、アムステルダムの象徴でもあり宝なのだ。部屋の電気をディーマーで少しずつ落としていくと絵の中のレンブラントライトがさらに強調されるように見える。まるでその絵が立体的に誇張され浮かび上がってくるようだ。
赤い布を纏った隊長、白さと金の輝きが際立つ副隊長。そしてどこからの灯りに照らされている女。それぞれにはいろんな解釈がある。厚塗りだとか鉛だとか。目の前の壁はプリントだから平面だけど、明日本物の前に立てると思うと脈拍数が上がる。一体何人が描かれているんだろう。
と 携帯が光り、点滅している。こんな時間に電話? 誰だろう?
「やば!」
「CP BB」と表示されている。Pとの話以来ブラックバードのBBと表記している。
「あなた! 一体どこにいるの?」
「あの、有給をとったんです。」
「どこにいるの?って聞いてるの。聞こえてるの?」
「あのー。」
「答えなさい!」
嘘を言ったところでマイナスなだけだ。
「アムステルダムです。」
悲鳴とも癇癪とも言える雄叫びが聞こえてきた。
「まさか、立石と一緒じゃないでしょうね?」
「立石? ああ教授ですね? 部屋は別々ですが。」
帰ってきた言葉は動物の獰猛な遠吠えにしか聞こえなかった。あまりにもマイクの近くで叫んでいるのか音は思いっきり割れている。
「こ、これだけは言っておくけど、彼は私のものなのよ。いい!」
壁の絵の中の女が怯えている。
私のものって、仕事上で押さえているキーマンを勝手に使うなってこと?
え? それとも彼氏? まさか。
壁に描かれている女と目が合った。
朝食のバイキングの窓の外はまだ暗かった。
教授の背中がみえる。
「ご一緒していいですか?」
彼は少し難しい笑顔で黙ってうなづいた。
「零。」
真剣な顔つきだ。
「ぐっすり寝れたか?」
私は首を横に振った。
「昨晩BBから電話があっただろ?」
やっぱりそのことか。
「はい。」
「なんて言っていた?」
取り立てのスクランブルエッグはちょうどいい具合なのに早くしないと冷めてしまう。私はドキドキする気持ちを抑えながら普通を装ってフォークを口に運んだ。
「あち!」
「迷惑をかけたかな。気にするなよ。」
彼にも電話しているのは違いなかった。
「あの、教授のことを、『私のもの』って言っていました。」
私は事務的に言ったつもりだった。
「困った女だ。」
そう言いながらコーヒーマシンのところに立ってエスプレッソのボタンを押したかと思うと、小さなパンオウショコラを2つ持ってきて1つを私の皿に置いた。
「あ」
教授は砂糖を小さなコーヒーカップに入れてかき混ぜている。
「まさか、教授とCPはできているんですか?」
しまった。自分の言葉に慌てて口元を手で覆った。教授のいつになく鋭い眼差しが私の目の奥に刺さっている。
「俺とあの女が恋人同士だったことはこれまで1秒たりともない。」
「どういうことですか?」
「気にするな。今言った通りだ。」
「気になります!」
私を見ながら彼はエスプレッソを飲み干すと、再びコーヒーマシンに向かった。
「教授、そんなにコーヒー飲むのはどうかと。」
振り返った彼は大きくため息をついた。
「確かに仕事上では長い付き合いだ。彼女がPになった時、俺は助教授だった。彼女は明晰で一際美しかったと言ってもいい。確か、局内ではマドンナとかビーナスって噂されていたくらいだ。」
「その面影は今でもあります。きっと若い時は…、」
「その彼女から誘われたんだよ。彼氏にならないかって。」
飲みかけたオレンジジュースを吹きかけた。
「自分で言うのもなんだが、俺はその時、美術界を斬る新進気鋭の美術大学の助教授として名が上がってきたところだったんだよ。」
「つまり、人も羨むカップルになるってことだったんですね?」
「おそらく。だが、俺は上から目線の女は嫌いだし、第一俺は彼女のツールじゃない。」
「でも、もしかしたら、彼女は人には見せない部分を教授には見せたかったのかも知れませんよ。」
「…、そんなふうには感じなかったけどな。何か、箔が欲しかっただけだよ。」
「箔ですか?」
「後ろ盾っていうか。」
教授はパクッとショコラを口にすると、美味しそうな表情がこぼれた。
「いや、君にはそういう弱いところを感じるな。強さの反面に隠れている弱点をね。」
ジジイ。言いたいことを言っている。ただ、BBの件は信ぴょう性がある。確かに彼女が一番大切なのは地位とか見た目だ。
ふうっと今度は私がため息をついた。皿に取ってきた朝食はまだスクランブルエッグを一すくいしただけだった。
「30分後には出発するぞ。」
そう言うと教授はチャリンと部屋の鍵を鳴らして席をたった。朝食の後はトイレに行って身だしなみを整
え…、時間がない。
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レセプションのあるホールに降りてくると、教授は随分と軽快な格好をしている。私は少しロングのスカートにシンプルなコート。ニットのブーツで大人っぽい。彼はじっとつま先から胸元までで吟味するようにパンナップして目が合ったところでやんちゃ坊主のように言った。
「着替えてこい。」
「は?」
いきなり何? 失礼だ。それなりにおしゃれしてきたのにどう言うことだ。
「ここはオランダだぞ。パンツにしろ。」
「パンツって、いくら教授でもそれは私の自由です。恋人にだってそんなこと言われたくないで〜す。」
朝食の話の続きもあってか年甲斐もなくそんなことを言って、ちょっと可愛い意地悪く口を尖らしていると、教授はこっちにこいと首を振って自動ドアを出た。
「こいつで美術館まで移動だ。それぞれの分をレンタルしてある。」
「え?」
「いや、俺の後ろに貴族乗りして抱きつきたいんならそれはそれだが。暖かいだろうし。」
ムフフじゃない。私はくるっと踵を返してエレベーターに向かった。
「ここは真っ平なオランダだ。移動は自転車かスケートに決まっている。」
「そんなローカルなこと急に言われても。」
私はエレベータの扉に向かって独り言を吐いた。後ろで声がする。
「美術館までは自転車で10分ほどだ。外は少し寒いが、すぐにポカポカになる。」
私のジーンズ姿なんか見せたくなかったのに。
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頬にあたる風は冷たかったが、少し走ると気持ちよくなってきた。
それにしても、一緒に流れている多くの自転車のスピードの速さといったら想像以上だ。ベネチアはゴンドラやボートが行き来しているけど、こちらは自転車が波のように道路を行き交い運河の橋を渡っている。更に、オランダ人というか北欧の人たちは背が高いから自転車も大型だ。私のは…、子供用か? 漫画のようにくるくると足が回転している。しかし、特に朝は連なる車たちよりも軽快である。確かに歩くよりもその流れに乗った方が安全なのかも知れないし、トラムに乗るよりも自由を感じる。
レンガの連なる街角を抜けると広い芝生の公園に出た。登りたての朝日を斜めからうけて朝露に反射する銀色の緑が清々しい。
「ほら、あれが国立美術館だ。左側にはゴッホ美術館。モダンだろ。」
駐輪場に自転車を停めると目の前には紅白の文字が見える
「アイ・アム…?」
「アイアム・ステルダム。だよ。」
「あは?」
「今頃わかったか。まだ寝ているな。」
「だから、寝てないんです!」
本当にいちいちうるさい。
「でも、オランダ人もダジャレが好きなんですね。」
教授はその言葉に笑いながら軽くうなづいている。
「オヤジギャグだな、これは。世界中の人がわかる基本的なギャグだ。何も美術館の前にこんなに大きく文字を立てる必要があるのかどうか。」
「教授。観光の宣伝文句ってことですよ。」
「じゃぁ。日本向けには?」
「え?」
「愛、アムステルダム。だろ?」
「やっぱり時差ボケだな。」
「あ!」
ジジイの頭の回転についていけない自分が少し悔しかった。いくら低ラベルとはいえ。くそ。
国立美術館はライクスムゼウムという。横長の大きな薄煉瓦色の建物は立派に聳え立っている。芝生のある方は背面だが、真ん中にアーチが3つある。その一番大きな中央のアーチの下で教授は止まって上を見上げている。
「なんですか?」
「ほら、あそこにカバーがしてあるだろ?」
中央のアーチの天井に沿って黒いアイロンのカバーらしきものが確かに見える。
「あそこの上に『夜警』があるんだ。」
また変なことを考えてるに違いない。
だが、表情は真面目だ。ということはあながち冗談ではないのかもしれない。
「何か理由でも?」
「考えてみろ。美術館に何かあった時、例えば火災。あんな大きな絵をどうやって運び出すんだ。」
「…。」
「絵だから丸めればいい? 一刻を争うとしたら、そんな悠長なことは言ってられないだろ。」
「緊急脱出用ハッチっていうわけですね。」
「ああ。」
「それだけ重要な絵画ってことなんですね。」
「ま、いざという時のタンポンいやナプキンみたいなもんだな。」
見るな! 私を見るな! そんな言葉に反応している表情を見られたくない。
「エロ親父。」
「何か言ったか? 俺は人となりを見て話しているんだ。」
「何言ってるんですか!」
この教授、今の時代生き残るのは難しそうだ。炎上しそうな言葉しか出てこない。
「おっと、我々は通用口から入るんだった。」
通用口には恰幅の良いおばさん警備員が対応している。
「零くん、パスポート。」
教授が二人のパスポートを渡すと、代わりにビジットカードが差し出された。
「出入りする人の邪魔にならないように、その角で待てということらしい。」
通過する人たちを観察すると、老若男女を問わずインテリ風だが個性のありそうな人たちが多い。もちろん、技術系やメンテナンスの人たちもいるのだが。
「シンジ!」
中年プラスの白縁のメガネをかけたおばさまが教授に抱きついた。
「トゥットベーネ? 久しぶり。どうしたの急に? 新しい論文のネタでも探しにきたの?」
と、私と目が合った。
「レイです。よろしくお願いします。」
「こんにちわ。マンチーニです。」
え? 聞き間違い?
「シモネッタって呼んでね。」
名前がキョーレツだ。
「あら、いいわねぇ。シンジ、今回は愛人と一緒なの?」
このおばさまも相当きつい。
「あぁ、日本のTV局のディレクターなんです。彼女こそ、番組のネタ探しについてきたんですよ。」
「あら、ブラックスワンの代わりなのね。」
こっちではブラックスワンか。
「いえ、担当が違います。私はレイと言います。始めまして。」
「いい時に来たわね。今はレンブラントがスッポンポンなのよ。」
「スッポンポン?」
「いや、こういう言葉は一度使うとすぐ覚えられちゃうんだよ。」
私は教授をキッと睨んだ。
「レンブラントじゃなくて『夜警』がですよね?」と返すと彼女はキャハハと若い女の子のように嬉しそうな表情を浮かべた。しかし、ったくこのオヤジどこでもこのノリなのか。どんどんエスカレートしなければいいのだけれど。
壁のような扉から一般のエントランスホールに出た。そこは建物の中庭で、今は大きなガラス屋根がついて明るいピロティーとして機能している。歴史ある外観なのにそこはとてもモダンな心地よい空間になっている。あ、喫茶店まである。
「後でここに来ましょうね。」
彼女は名前とはかけ離れてエレガントの香りを漂わせて歩いている。素敵な人だ。
幅が広く長い階段を上がり、右に曲がるとステンドグラスのある広間に出た。なんと天井の高いことか。さらに少し進むと右側の壁の中央に大きなガラス扉がある。そこに入ると、その直線上のどんつきにに小さく『夜警』が見えた。が、どうやら厚いガラスでできた囲いの中に閉じ込められている。前にはすでに人だかりが。
目の前にはいけなくとも透明度の高いガラスから見える『夜警』には額縁が無くさらされていて、まるで緞帳のような趣だ。一枚の平面であるはずなのに絵の陰影がどっしりとした重みなのか厚みを感じさせる。そして、それを目の当たりにしている人たちの瞳の輝きや眼差しは高揚した空気圧をガラスの壁に押し付けている。
すごい。大きさに、その臨場感に、そして…、圧倒された。
「来た甲斐があっただろ?」
私はためらいもなくうなづいた。
しかし、何度も見ているはずなのにまた何を探りに来たのだろう。教授は何を探しているのだろう…。
あ、そうだ、絵の具だった。彼女が見つけた絵の具の成分が今回の旅のテーマだった。
ガラスケース外の下手の扉に案内されながら一度絵をみると、どこかの色が渋く反射しているのを感じた。
x
『夜警』の裏側は1つの大きな部屋になっていた。長テーブルの周りにはホワイトボードがいくつかあり、
モニターシステムも完備。最近の研究で撮影された高精細な写真が貼られていたり、モニター上でチェックできるようになっている。
「さ、飲み物は、お水?コーヒー?」
「日本茶がいいな。」
「教授!」
「あら、あなたが高級玉露をお土産に持ってくるのかと思ったわ。」
「いや、急須は持ってきたんだけどな。」
と小さな木箱を差し出した。箱には有名な刻印が。
「まぁ!」
「今回はこれを渡すために来たようなもんだ。」
彼女は私を向いてウインクをした。
「気をつけなさいよ。抜け目ないんだから彼は。」
「は?」
アシスタントがお水を配り出した。ガス入り?無し?と聞いている。
「ところで、例の絵の具なんだけど。」
「ああ、あれね。やっとわかったのよ。鉛が入っているって。」
「ただの絵の具じゃなかったんですね。」
私もつい乗り出した。
「そう、今やわかってみればたわいもないことなんだけど…、あの当時でそれを使っている人、いえ、画家はほぼ皆無。つまり、彼、レンブラントが最初だった。」
「それがあの鈍い光の元だったんですね。」
「実はちょっと触れてみたんだけど、確かにあの感触はただの絵の具じゃないの。」
彼女は指先を立てて匂いを嗅ぐ動作をした。
「ある量を超えると毒だから危険なんだけど、ほら、成分はね、ほんの微量。」
タブレットを操作すると大きなモニターに分析結果が表示された。
「…ギ酸鉛。」
「そう、あのテカリは本物の鈍い光なのよね。そして…、」
背中が少しゾクッとした。って教授はやけに静かだ。
「教授! こんな時に何寝てるんですか!」
「ん? あー。」
ただでさえ細目の目がほんやかしている。ったく、肘で彼を突いた。
「そう、長い間空気にさらされることによって酸化する。つまり、色が変化してしまうわけだ。」
え? 堕ちてたかと思っていたのに、一応聞いていたんだ。
「だから、わからなかったのよ。今回修復作業を同時に進めることによって、新たな疑問が浮上した。それを突き詰めたら、あの渋い光沢が戻ってきたの。」
「なぁるほど。大発見ですね。」
「でも…、シンジ。あなたの興味はそこじゃないでしょ?」
「?」
「さっき私の説明の時に、色々と妄想していたでしょう?」
彼女はまた指を立ててそれを横に振った。
「あんたにはいつもお見通しだなぁ。」
なんなんだこの人たち。
「私は科学的、そう、化学的なものの探究をする。でも彼はそこから広がる先を見てるの。」
「なんですかそれ?」
「つまり、そこに広がるっていうか、絵画の背景にある生活かな。そうでしょ?」
「どこまで正しいかはわからないけどね。」
「それは、考察であり、推理であり、妄想。」
ははぁ。よく言えばだけど、ぽりぽりと頭を掻いている教授はただの妄想おやじにしか見えない。
「絵を見に行きましょ。」
彼女は席を立った。
「またここに戻ってくるから、カバンは置いておいてね。」
「あの、携帯は…?」
「もちろんOKよ。」
人だかりをかき分けてガラスの扉の中に入った。ちょっとした優越感。と同時に檻に入った日本人。
透明とはいえガラスの遮りがなくなると、絵自体が更に私に迫ってくる。額が無いからか、いや、囲まれているからか、絵の具の匂いが充満しているように感じる。
思わず携帯で何枚か写真を撮った。
「当時の集団肖像画ってみんながカメラを見ているような、そう、学校の卒業アルバムの記念写真みたいなものがほとんどだったの。まぁ、それを依頼者が望んでいたとも言えるけど。だから、みんなの顔が正面を向いているし、ベタ明かりののっぺりしたものになっていたのよね。」
「絵だから、欠席した人が円形の枠に収まるってことはないわけですね。」
「ウフフ、確かに。」
「でも、」
「なんですか?」
「でもね、そんな絵は一度見たらもういいでしょ。自分が確認できればそれで満足。」
「?」
「あなたは卒業アルバムをどれくらい見返したかしら?」
確かにそうだ。私は受け取った時は嬉しくて自分を探したが、それ以来一度も見ていない。
「それはね、そこに動きや生活が見えないからだと思うの。よく言えば、安らかに記憶の底にしまっておけるもの。ふと思い出した頃に顧みればいいものよね。」
目の前にある大きな絵は確かに躍動的だ。誰もが動いているように見える。いや、動いている一部を切り取っていると言ってもいい。そう言った意味ではこれは集団肖像画からは少し外れているのかもしれないけれど、そこを狙ったのもレンブラントだからできたのかもしれない。
「人によっては音も聞こえるって言っているわ。銃が暴発した音とか。」
私にはそれは聞こえないが、確かに人々のざわめきは感じる。
いつの間にか教授は勝手に絵の前にあるプラットホームに登って、恐ろしく近くで絵を観察している。
「教授! そんなに近寄って危ないです!」
凝視しているのか、匂いを嗅いでいるのか。すると今度はガラス面まで下がったと思うと、随分と未来的なメガネをかけて全体を測るように見ている。かと思えば腰をうかして横移動。
「教授、怪しい動きはやめてください! ただでさえギャラリーから注目されるようなところにいるんですから。」
「あ〜ぁ。」と中途半端な返事をして今度は腰を上下に…。
「使い勝手が…。」
「何独り言を言ってるんですか?」
「ほら、ここを見て。」
彼女が質問をしてきた。
「何色に見える?」
変な質問だ。
「金色ですよね?」
「ええ、確かに金色に見えるわよね。でも。」
「あれ?」
「そう、これは黄色とオレンジ。それに白が混ざっているから、光っている金色に見えるの。」
言われてみればそうだ。頭の中では白い巻物に金色が散りばめられているように見えていた。しかも、ただの金色というよりも、そう、光に反射した金色に見えるのだ。
「すごいですね。」
彼女は嬉しそうにウインクした。教授はあの変なメガネを外してある一点を見ている。それがどこかはわからないが。
「教授!」
呼んでいるのに何か考え事をしているのか気がつきさえしていない。
まさか…。また食事のことでも考えているのではないかと勘ぐってしまう。
「教授!」
大きめの声で呼ぶと、彼は現実の世界に帰ってきた。
「いちいち大声を出す必要はないよ。」
何よ、夢を醒ましてあげたのに。
「さ、もういいかしら? 部屋に戻りましょう。」
部屋に戻るといい匂いがする。
アシスタントくんが早速教授の急須で玄米茶を入れてくれてたのだ。
「実は私は日本茶好きでして、自分用のお茶っ葉なんですが、教授の急須を見てみんなで飲もうかなって思ったんです。」
「ありがとう。あなたと教授の組み合わせはいかがかしら。」
彼女は気の利いた彼の対応に満足している。そんなオープンな感じが心地よいし、みんながその香りにリラックスしている。
「あの絵はいつ額に戻されるんだ?」
教授は唐突にそんなことを聞いている。
「ええ、来週頭には。もう研究と修復は一段落しているの。」
「そうだったのか。」
そうだったのかって、そんなことも確認しないで来たの? この人?
「そうだ、零くんは撮影しなくていいのか?」
急に振ってくるな! んなもの台本もできてないのにできるわけないだろ。
「ええ、近いうちに先生にはインタビューをと思っていますが。まずは構成をつくって。」
「いつ頃になるかしら?」
「最速で二週間はかかるかと。」
彼女は両手を広げた。
「これが終わったら一度実家に帰ろうと思ってるの。もし、私がここで作業しているのを撮影するならば、明日とかがいいんだけど。」
困った。しかし、まだ何も決めていない。
「ま、そこら辺は連絡を取り合ってだな。零。」
がたんと教授は席を立った。行くぞっと目で合図された。お辞儀をして扉の前で待っていると、シモネッタは教授に抱きついている。何か話しているようでもあるが、軽くほっぺたを合わせて手を振りながら別れた。ガラス張りの広いロビーは明るかった。
「コーヒーでも飲むか。」
「さっきお茶いただいたばかりですよ。」
「あそこの喫茶店に行きたいんだろ?」
しかし、人気なのか行列ができている。順番が来るまで結構かかりそうだった。
「教授!」
彼は待っている人を飛び越してウェイターと話している。と、こっちに来いと手招いた。
白いカウンターはシンプルで飾り気がない。そこが素敵だ。ヨイショと教授に並んで座った。足ブラだ。
「シモネッタがビジットカードを見せれば優先的に席をくれるって言っていたんだ。テーブル席じゃないけどいいだろ?」
天井が高いのはとても開放感がある。中庭をこんなふうに利用するなんてセンスある。
「ケーキもいいが、そろそろお昼の時間かな。」
確かに透明なショーケースには美味しそうなケーキが輝いている。けれど、朝それなりに自転車で運動したし、絵や彼女の前では緊張していたからか、ちょっとお腹が空いているのも事実。
「簡単なランチセットがある。それにするか。」
特に好き嫌いがあるわけではない。親指を立てた。
「教授、ここに来た甲斐はあったんですか?」
彼は薄笑いを浮かべて軽くうなづいた。何?
「これから少し忙しくなる。」
「え?」
金髪の若いウェイターが注文をとりにきた。またしても私にウインクしている。私もまだまだ捨てたもんじゃない。
「まぁ、東洋人は若く見えるってのもあるからな。」
「私、実はバツイチなんです。」
突然何言ってるんだろう。変な自分がいる。
「へー。」
「五年前にPの城長さんと夫婦だったことがあるんです。」
「で?」
「半年で離婚しました。」
「仕事ではすごくいいパートナーだったんですけど、いざ家庭に入ると…。」
「モラハラぽかった?」
私は遠くを見てうなづいた。でも、なんでわかるの?
「かなり。最初っから夫婦別姓で行こうって言っていたのに。やれ朝食の時は携帯見るなとかから始まって、いちいち干渉するんです。どーでもいいような細かいことに。」
「仕事のストレスを家庭でぶちまけるか。まぁ愚痴ぐらいは聞いてほしいとは思うけど。」
「今彼はアナウンサーだった子と一緒になって、子供もできて幸せそうです。」
「いいじゃないか。それぞれの道を見つけたわけだし、仕事での付き合いではまたうまくいっているんだろ?」
「ええ。仕事では尊敬できる人です。」
「零。過去のことで足踏みするなよ。」
「え?」
「それはお前の歴史。つまり人生のページの一部なんだから、マイナスにしないで色々学んだと思って昇華する。前を見ることだよ。幾つになってもね。」
なんだ、たまにはいいこと言うじゃないか。普段は50パーセント親父ギャグで45パーセントエロ話のくせして。ちらっと彼の表情を伺うといつもよりは鼻の下が短く感じた。
別な若いお姉さんウェイターがランチプレートを運んできた。今度は教授にウインクしている。あー。
「あ、これ、コロッケランチ?」
「オランダのティピカルな料理が食べたかったんだろ?」
お皿に乗っているのはまあるい金色のコロッケが5つと小さなサラダ。そして、コンソメのスープだった。随分とシンプル。
「ティピカルって?」
「みればわかるだろ。コロッケ。ここではビッターバーレンっていうらしい。」
「コロッケっていうか、クロケット。」
「スウェーデンは?」
「イケア。」
「つまり?」
「ミートボール。」
私はぺろっと舌を出した。
「だから、オランダはコロッケなの。暖かいうちにさっさと食え。」
わかったようなわからないような。まぁいいや、触ってみるとちょうどいい暖かさだ。
フォークで刺して口の中に放り込んだ。揚げたての皮がパリッとして中はクリーム状の…、
「アツ!」
「子供かお前は…、」
「でも、おいひいです。」
口の裏側が火傷した。
「ところで、教授は独身なんですか?」
「俺は、サンカクイチだ。」
「なんですかそれ。」
教授は遠い過去を見るように目線が遠い。
「あのケーキうまそうだな。デザートにどうだ?」
「教授!」
「ああ、すまん。」
「なんですかそのサンカクイチって。」
「実は、もう随分昔だが、俺はある女性と婚約していた。」
「…。」
「だが、ある事件に巻き込まれて、彼女はそれ以来行方不明なんだよ。」
「事件? 行方不明?」
「そう。未解決の…。」
聞かなきゃ良かった。
「つまり、今は独り者ってことだ。」
少し酸味の効いたランチのスープも美味しかったと思う。しかし一瞬味を失っていた。
「未来のことは誰もわからないんだよ。レンブラントだってそうさ。」
「?」
「いろんな研究家が彼の描いた絵の意味を細かく研究している。それは素晴らしく意味のあることであはるだろうが…。」
「本当かどうかの確証は誰にもわからない。」
教授は少し驚いた表情を見せた。
「例えば、この絵が何を意味し、どのような未来を示唆しているとか、我々に向けたどういうメッセージが込められているかとかいうが。」
「教授はその実わからないとでも?」
「ああ、そんなのはあくまで詮索に過ぎないだろ? 当たっているかもしれないし、そんなものは無いのかも知れない。」
「じゃぁ、全く価値がないと?」
「いや、そういうことではなくて、人それぞれなんじゃないかって思うんだよ。さっきも言ったように、その研究は重要なことだ。画家を探求することは価値があると思う。ただそれとは別に、絵を見た人自身それぞれ自由に感じればいいんだよ。その人の年齢や性別によっても見え方が違うだろうし、もちろんその生活、環境によっても色々とね。」
「個人が自由に感じていいんですね。」
教授はそこし遠くを見てうなづいているかと思うと鼻の下が伸びている。
「教授! どこ見てるんですか!」
目の前を通り過ぎる綺麗なウエイトレスが笑顔で首を傾げながら通り過ぎすぎようとしている。
どこまで真面目なのか全くわからない。
「ところで、零は何かスポーツをしているか?」
彼はその彼女を呼び止めてエスプレッソを頼んだ。
「なんだと思いますか?」
「スキューバーダイビングとか?」
ないないと手を振りながら聞いた。
「なんで?」
「いや、水中眼鏡とか似合ってそうだから。」
本当にこのオヤジ、勘弁してくれッと少しつっついた。
「ボ…、」
「ボーリング? 今時のシニアスポーツか?」
今度は少し強めに脇腹をつっついた。
「私はいい加減いい歳ですけど、まだまだ若いんです!」
「ボートか?」
両手を漕いで見せている。私は首を横に振って彼の目の前で両手をギュッと掴む仕草をした。
「ボルダリングです。」
咳き込みながら振り返った彼の表情はまさに『信じられない』だった。
「もう、かれこれ五年くらいやってます。」
「こんなポーズとか?」
彼は突然椅子を降りて変なポーズをいくつか見せた。ちょっといやらしくも見える。
「ええ。」
「決まった。」
「え?」
「今晩、俺に付き合え。」
何言ってんの? いきなり誘ってるの? ムードも何もない。鼻の下が…。
「行くぞ。」
彼はチェックとウェイターに動作で示すとカードで支払いを済ませた。
「あ、会計は別々に!」
「いいんだ。色々と準備がある。これから17時までは自由時間にしよう。」
「は?」
通用口を出ると彼は携帯で電話しながら自転車に跨った。
「ホテルはわかるよな? じゃ、後で。時間厳守だぞ。」
突然凛々しくなった教授はチリンチリンと小さくなっていった。
なんだかドキドキする。オランダ、アムステルダム。アムステルダムといえば赤提灯。じゃなくて飾り窓。教授と私。信号で止まった目の前のお店のショーウインドウにはなんだかいやらしいアイテムが色々と飾ってある。派手な下着、怪しいマスク。ボーっとしながら自転車の波に任せて漕いでいるといつの間にか風車が見えてきた。トラムが目の前を横切る。喫茶店の前では葉っぱの匂いがする。どこだろう。運河の迷路に迷い込んでしまった。橋の上で深呼吸するとボートがゆっくりと下を通過していく。
落ち着け。私はロケハンにきたのだ。そう、仕事できたはずなのに。これは恋の予感?。若ければそこに飛び込んでみてもいいかもしれないけれど。あの変態ジジイと(って勝手に思っているだけかもしれないけど)のことを考えると脈拍数が上がるのはなぜなんだろう。やばい。急に眠くなってきた。携帯で自分のいるところを確認するとホテルからは結構離れている。とにかく戻って一休みしよう。夜になにが待っているのか知らないけれど。あぁ、頬が熱くほてっている。
なんとかホテルに着くと、私は熱いシャワーを浴びてそのままベッドに潜り込んだ。大きな枕が気持ちいい。ってそのまま羽毛にくるまって堕ちていく自分に逆らう気力も体力もなかった。
ズー、ズーっと携帯の震えている音に目が覚めた。やばい、17時だ。
「これから部屋に行く。」
すぐに部屋をノックする音がした。
あまりにすぐだったのでタオルを巻いて出た。
「ありゃ、失礼。というかちょうどいい。これに着替えろ。色々探したがこれしかいいのがなかった。」
パッツンパッツンの黒のワンピースボディ。まるで薄いスウェットスーツだ。一体どういうプレイをするというのか?
「いいか、パンティーは履くなよ。」
「え?」
「パンティーの筋が見えたらカッコ悪いだろ。」
なんなんだこのエロオヤジ。片手でタオルを押さえてビンタを喰らわせようとしたら、腕を掴まれた。
「着替えたらすぐに下に集合だ。また自転車で移動だ。そのままだと寒いからコートは着てこいよ。
「え〜?」
どういうことだ。どこかの変態クラブにでも行くのだろうか?
小さなリュックとロープ?がカゴに入っている。
走っている道は朝と同じようだ。見えてきたのは暗闇に照らされている美術館。
美術館?
門は閉まっているはずなのにスルッと開けて自転車ごと中に入った。
「腕の見せ所だぞ。」
そう言いながらコートを脱ぐと教授もツルッとした黒いうウェットスーツのような姿になった。ちょっと出ているお腹をキュッと引っ込めて笑っている。背中には小ぶりのリュック。ザイルも肩にかけている。私もコートを脱いだ。ガラスの壁に写っているシルエットの二人はまさにあの文字文字くん。プッと吹き出しそうになるが、彼はもう登り始めてあのタンポンのそばにいる。なんという速さ。ガゴンと一部が開く音が聞こえたが、周りの車の音にかき消されている。
考えてみればとんでもないことだ。国立美術館に侵入するなんて。でもなんで? 目の前にスッとザイルが下された。上を見上げて首を横に振った。
「いいから腰に巻け。もしものためだ。」
仕方ない、肩に通して私も登り始めた。
「やるじゃないか。」
「あなたこそ! 年甲斐もなく。」
「うるさい。」
少し息が切れているようだったけど、疲れは微塵も感じさせなかった。
ザイルはそのままにしてスタスタと美術館の中によじ登ると目の前に『夜警』が出現した。そう、すでにガラスの囲いの中だ。まさに、ザ・侵入⁉︎
「教授。」
「ん?」
「私、何も聞かされていないでここにいるんですけど。」
「そうだな。」
「そうだなって、これ、言ってみれば犯罪ですよ。立派な無断侵入だし、下手をするとお縄ちょうだいコースですよ。」
「ああ。巻き込んじゃったかな。」
ったく常識ってものがわかっているんだろうか。ここまできちゃった私も私だけど。今更遅い。
「まさか、いろんなところでこんなことやっているんじゃないでしょうね?」
「まぁ、時と場合によるかな。」
非常灯が点いてているせいか少し薄暗い程度だ。ホテルの部屋の壁のようにというか、部屋全体は薄暗いのに絵の中の中心の二人には常にどこかからスポットライトが当たっているように見える。
「実は、あの絵の具の下に何かがあるような気がするんだ。」
「あの絵の具って、ギ酸鉛のことですか?」
「ああ、あの厚塗りの部分にね。」
私たちは、すでに絵の前に立っていた。ガラスの扉に鍵はかかっていなかった。
教授はあの変なメガネをかけてまたガラス側に立った。
「これで座標を作っている。」
「座標?」
すると今度はやっと人が入れる絵の裏に回り込んだ。
「ここかな?」
「零。リュックの中にあるカッターをとってくれ。」
「カッター?」
探してみたが、そんなものはない。
「ありませんが。まさか忘れたとか。だいたい…、」
「コンデカッターだよ。細長いペンのような。」
「これですか?」
「知らんのか?」
「コンデカッターは昔新聞の切り抜きとかで使っていたんだよ。」
「へー。今の時代にそんなことする人は皆無ですね。デジタル世代ですから。」
「何言ってる。お前だってそうだろ。」
「だから一緒にしないでください。私はその境目なんですから。」
「アナログなくせに。」
「で、何がすごいんですか? そのコンデもないカッターって。」
やばい、親父ギャグがうつってきた。
「新聞紙を重ねて切っても上の紙しか切れないんだよ。」
「え? どんなに力を入れても?」
「そう。思いっきり力入れてもね。」
「それズゴイかも。」
「だろ。」
「まぁ、ここで思いっきりというわけにはいかないが。」
「でも、まさか絵に傷をつけるの?」
「ちょっと裏から捲るだけだ。このキャンバス用にある専門家に刃の厚みを調整しておいてもらったから大丈夫なはずだが。」
ピッとメガネの座標が一致する音が聞こえた。
「ここだ。表を見ててくれないか? どこまで信用できるかはわからない。傷がついたらすぐに逃げる。」
もう、何をやっているかわからなくなってきた。私はもう立派な共犯者だ。絵の裏から声が聞こえる。
「鉛はX線を通さないんだ。だから…。」
「だから?」
「その向こうは見えないんだよ。」
「意味がわからない。」
「彼は普通の塗料で描いた部分の上にそれを厚く塗った。つまり、」
「つまり?」
「鉛を塗る前に何かそこに書いているかもしれないんだ。そうだろ?」
「んな。」
「しかも、鉛は空気に触れて酸化すると変化する。そう、硬直するんだ。」
「もしかして、分離するってことですか?」
「正解。どうした、冴えてるな今日は。」
うるさい。さっきぐっすり寝たのが良かったのかも。
「気をつけて! 切る部分はその鉛の部分よりも小さくないとうまく戻らない。」
「その通り。」
チーっとかすかにキャンパスを引っ掻く音がしている。
教授の鼻息が聞こえる。いつになく緊張しているのがわかる。
「表面は?」
「大丈夫です。」
「零。」
「これを撮ってくれ。」
「え?私のiPhoneでですか?」
「一番新しいやつだろ? プロレスロウの最高画質で。」
「と、突然言われても。セッティングするのに時間をください。」
「早くしろ。」
本当に突然なんだから。それにしてもiPhoneを使うなんて教授も結構いけてる。簡単、確実、綺麗に撮れる。忘れてこなくて良かった。ふう。
「撮るのはブツのみだ。俺たちの証拠は残さない。いいね。」
せっかくの機会なのに残念だけど、確かに記念写真は悪い証拠になるだけだ。狭い裏に回った。
「ほら、ここだ。」
教授はコの字に切ったキャンバスをこちらに返している。
緊張して手が震える。教授が優しく手を添えて固定してくれた。お互いの顔がくっつきそうだ。心拍数が上がる。パシャ! パシャ!とシャッター音がホールに響いた。
「次はフラッシュありで。」
仄かな暗闇に明るい瞬間がパシャという音と共に何度か漏れる。
「無音にできないのか?」
「日本仕様だから、無理なの。」
「そうだった。変な国だな日本は。自分が住んでいるのに違和感を感じる。」
息で上下する胸の上で撮った写真を確認してみた。
「何か書いてあるのかしら?」
「ん?」
教授は私に寄りかかってのぞいてきた。
「うーん。相当痛んでるな。」
やばい、さらに心拍数が上がる。
「さ、早くここを出よう。」
彼は切り口を戻して、私たちは来たように戻った。まるで忍者のように。
「とりあえず、目的は達成だ。先に降りて。」
「あ、教授、落ちそうになってました。」
「危ない危ない。こんな落とし物できないな。」
教授のiPhoneを渡すと私はスーッとザイルと伝って降りた。彼はザイルをほどくとバタンとタンポンを閉めてゆっくりと壁をつたって降りてきた。
「ありがとう。」
そういう彼のホッとした優しく深い笑顔に思わず抱きついた。が足が滑って転びそうになったのを咄嗟に支えてくれて変なポーズになった時だった。突然パーッと何かのライトに照らされたと同時にシャッター連射の音がアーチに響いた。
「バースタ! シンジ!」
その声は!
「シモネッタ。」
彼女は自分のiPadをこちらにむけている。
「最高の記念写真だわ。」
文字文字おじさんとおばさんが怪しいポーズで抱き合っている写真だ。 やば。
「二人とも自転車はそこに置いておいて、私の車に乗りなさい。コートは着なさいよ。」
例のアシスタントが運転する車はどこに向かっているのかわからなかった。
「シンジ。いったい何を見つけたの? 」
教授は黙っている。助手席に座っている彼女は振り返って私を見た。
「わかっていると思うけど、あなたたちのこと、いかようにもできるのよ。犯罪者として警察に引き渡すこともできるし、ブラックスワンに言いつけることだってできる。二人でこんないやらしい格好してるなんていいネタよね。ほんと。」
教授は大きくため息をついた。私ももう終わりだ。こんなオヤジについてきたのが間違いだったのか。ついさっきまでは何故か夢心地だったのに。
「零、見せてやれ。」
「教授、いいんですか?」
「仕方ない。もともと彼女が言い出したことなんだ。ギ酸鉛のことは。」
「そうよ。私の発見がなければ、シンジの妄想もなかったってことでしょ? それでどうしたってね。」
彼女はあたりまえだのクラッカー顔だ。
私は渋々写真を見せた。
「何これ?」
彼女には理解できないようだ。って私のお腹がグーッとなった。緊張していた車内に笑いがこぼれた。
「夕食食べていないのね。いつものレストランに!」
あれ? 一気に和やかな雰囲気になっている。どういうこと?
x
運ばれてきたのは食前酒のプロセッコだった。
「チンチン。」
みんなで乾杯? もうわけがわからない。
「零、実は我々があんなに簡単に侵入できたのはシモネッタとアシスタント君のおかげなんだよ。」
「え?」
「最初はね、深夜にしたらって言ったんだけど、まだ喧騒がある時の方がいいってシンジが言ったの。」
確かに今の時期は早く暗くなるし、シーンとしているよりはまだ街が動いている時の方が安全なのかもしれない。
「でも、彼が何をするかはわからなかった。そこは出てきてのお楽しみ。それが大発見かどうかは私が決める。」
なんなのこの人たち? 真面目一辺倒かと思っていたのに変な風に芸術を楽しんでいるっていうか…。
「で、どうだったんですか? 」
シモネッタはウフフと笑った。
「オッティモ。」
教授も満足そうだ。
「そう、何も私が発見者になる必要はない。その栄誉は彼女に渡すよ。」
何が書いてあったったというのだ、いったい。
「ほら、よくみてごらん。ギ酸鉛を塗る前に彼は落書きしたんだ。それぞれのイニシャルをね。」
どういうこと?
「レンブラントのRとサスキアのS。さらにこれはおそらくハートに囲まれている。よくは見えないが文字の周りに線の一部が見えるだろ?」
確かに拡大してみるとそう見えなくもない。
「レンブラントは妻サスキアの病気を案じていた。いや、もう助からないと察していたんだ。それと同時にこの絵が大作になる予感もあった。あの絵の中の紅一点はサスキアとも早く亡くなった子供とも言われている。でも、そうと確信できるほどそっくりではない。商業的には個人の気持ちを抑えた結果だろう。だが、彼女が自分のことを愛してやまないということも身をもって感じていた。だから、絵の中にこんな落書きをしたに違いない。しかし、」
「しかし?」
「そう、繰り返すが、これはあくまで人に頼まれた肖像画。しかも彼が生涯を通じてそれまでの経験と革新を融合させた大作。だから、そんな落書きは封じ込めなければいけない。そう、誰にもわからないようにね。」
「そのためにギ酸鉛を手に入れた?」
「いや、それは違う。彼の革新的なこの絵の具をたまたま手に入れたことによって、それを隠すことに利用できたと言った方が正解だと思う。」
「ブラボー。」
彼女はアシスタントに目で合図すると、彼はすでに対処済みですという顔をしている。
もしや…。
あぁ、私の携帯からはその写真はすでに消えていた。代わりにあったのは何枚ものあの破廉恥な写真。
なんとも素敵な思い出だ。メールダ。
「好きなだけ食べていって。ここのオーナーは私の知り合いだから。ホテルまではタクシーを呼んでくれって言ってあるから。じゃ。」
シモネッタは教授に頬を寄せて挨拶した後に私にも頬を寄せてきた。
「悔しいけど、あなたたちお似合いのカップルね。」
と私のホッぺにチューして去っていった。
「なんだって?」
そういいながらボンゴレビアンコを頬ばっている教授に私はおどけて見せた。
なんだか一際美味しいパスタだった。
デザートにはソルベットリモーネ。
冷たくてキューッとする。強い蒸留酒が入っている。
私は随分と気分が良くなって、緊張が解けたせいか一気に疲れが押し寄せてきた。
「教授?」
彼の表情が少し強張っている。同じ気持ちでいて欲しいのに。
「どうしたんですか?」
「1つ腑に落ちないことがある。」
この男、終わりがない。どっと疲れが倍になる。
「明日帰国するぞ。」
なんだって? 明日は二人でアムスデートじゃなかったの? 教授は携帯をパチパチし始めた。
「完了! 午前中の便だ。ビジネスで隣の席だ。」
「教授!」
「なんだ?」
「帰って寝ます。」
もう、素敵な気分が台無しだ。一世一代とも言える闇の仕事をこなしたのに。ロマンチックもありゃしない。あのまま捕まって一緒の牢獄に入りたかった。ってそんな気持ちにもなる。007だって最後はロマンチックに決めているじゃないか。もう、大っ嫌い。
「零? 何不貞腐れているんだ?」
外に出ると雨がしとしと降っていた。タクシーの窓には私の涙と雨露が一緒に流れていた。
x
成田行きのビジネスクラスは空いていた。隣にいる教授との間にはパーテーションがある。離陸後すぐに運ばれてきた昼食はコロッケだった。
「この皮の下に秘密があったなんて。ね教授?」
「ああ。でももうあの写真は…。」
教授の表情はいつになく無愛想だ。私はパーテーション越しに彼を見てニカっと笑った。
「ご自分の携帯は確認されましたか?」
「何? あ、まさか。」
「仕事が早いって褒めて欲しいなぁ。」
実はあの写真、ザイルで降りる前にエアドロップで教授の携帯に送っておいたのだ。
「おおお、ありがとう、零。」
そう言って彼は携帯の写真をじっくりと見出した。ああ、しばらくは平和がおとづれる。
「教授、私の寝顔覗かないでくださいよ。」
そう言ってパーテーションにあるブラインドをシュッと閉めた。
間をおいてそのブラインドを開けると教授の顔が目の前にある。しかも思いっきり鼻の下が伸びている。
「このエロ親父、のぞくなって言っただろ!」
「零、ここはビジネスクラスだ。言葉遣いに気をつけろ。」
私は、昨晩ホテルの部屋で書いた小さな手紙を書いたのを思い出し、それを教授に渡してブラインドを再び閉めた。
「恥ずかしいんだから、勝手にここ開けるなよ。」
もう、タメ口だ。ため息が出る。
機内は消灯してブルーの優しい灯りだけがほんのりついている。席をリクライニングすると、すごい、ベッドのように平らになる。決して幅は広くないが、段差など感じない。さすがビジネスクラス。毛布をかけてまぶたを閉じるが全然眠くない。ゴーっと静かに響くジェットエンジンの音。
そういえば…。教授は昨晩何か腑に落ちないって言っていた。なんのことだろう。
あの写真役に立ったかな?それより、私の手紙読んでくれたのかな。
ゴー。天井にゴーという石の文字が見えるようだ。時間が進むのがやけに遅く感じる。
「あっはっはは〜。そう言うことだ!」
突然の大声が機内に響いた。
「どうしたんですか?」
「そう言うことだったんだよ。なんで気が付かなかったのかな。」
「は?」
またわけがわからない。
「君の写真と手紙のおかげだ。」
『教授。今回はお誘いありがとうございました。突然あんな格好させられて、しかも泥棒みたいなスリリングな体験。初めてだったけど、忘れられない夜になりました。お邪魔じゃなければ、これからもよろしくお願いします。SR』
ちょっと、ここで読むのはやめて!
「大切なのは、この最後のイニシャルだ。」
え? そんなところ?
「いいか、あそこで見つけたのは。」
「RとS。」
「そうだ。」
「SとRではない。」
「どう言うことですか?」
「君がもし、ああやってハートマークの中にイニシャルを書くとしたら? どう書くかな?」
「え?」
「たとえば、私と君が恋仲だったとしよう。私が書くときはまずR零、そしてS真治。」
…私が書くとしたら…、
思わず、教授を見つめた。
「そう。」
「じゃ、あれはレンブラントが書いたんじゃなくて…、」
彼の瞳の奥にそのまま吸い込まれそうだ。
「サスキアのイタズラだよ。いや、メモリアルと言っていいかな。」
そんな。
「彼女は彼の一挙一動を全て見ていた。そして、自分の未来もわかっていた。」
「つまり、彼が闇商人から手に入れた秘密の絵の具のことも? 自らの死さえも?」
「そう、知っていたし理解していた。」
「旦那のこの新作が成功することも見通していた。あの躍動感、あのスポットライトのような明かり。彼の絵が生きてくればくるほど愛する彼との思い出をこの絵画に埋め込みたかったに違いない。そう彼女はずっと二人でいたかったんだ。」
本当だったらロマンチックすぎる。
「だから、レンブラントがまず軽く試し塗りしたところにイニシャルを刻んでその上に自分からギ酸鉛を塗ったんだ。それを知らないレンブラントはさらに重ね塗りをした。」
そんなジェスチャーをするリーディングライトに照らされる彼はまさにレンブラントの絵のようだった。
「教授。なんでそんなことが妄想できるんですか?」
少し恥ずかしそうな表情を見せた。
「うん…、俺は古い人間だし、小心者なんだよ。」
古いのはわかるが、小心者?
「だから、たとえば好きな子がいてもいざとなると言いたいことが言えなくて、くだらない冗談とかいって誤魔化すようなダメ男なんだよ。恥ずかしながらね。」
「なんだ、それじゃクレヨンしんちゃんですね。」
「あ?」
「これから教授のことはクレヨンって呼ぶことにします。あ、元々真ちゃんだ。」
「おい。」
背後からシーとキャビンアテンダントが首を伸ばしてきた。
「ビジネスクラスは空いていますが、寝ているお客様もいらっしゃるので。」
私たちに目配せをして去っていった。
「いいか、これは二人だけの秘密だ。」
黙って見つめあった。何かが込み上げてきて思わずまたブラインドを閉めた。
「おやすみなさい。」
そう言って横になった。
教授がそろっとのぞくと零はスヤスヤと寝ていた。頬を光らせているその寝顔は子供のようだった。
x
流れてくる荷物を待っている姿はどう見てもただのおじさんだ。いや、もうおじいちゃんに片足を突っ込んでいる年代だ。しかし、あの美術館に侵入した時の彼はどこか、いや、とっても凛々しかった。
「どうした? ほら、荷物が流れてきたぞ。」
「教授のおかげでお土産さえ買う時間なかったんですから。」
「誰に買うんだ?」
「え?」
うるさい。
税関を通ってホールに出た。
「ありがとう零。今回は世話になった。」
私は思わず彼に抱きついて見上げると、目が合った。
あぁ、あの美術館での一瞬が蘇る。
と背中で声がした。若い声だ。
「お帰りなさい。」
は?
振り返るとスレンダーで美人の若い女が笑顔で立っている。
誰? 誰なの?
私はサッと彼から離れた。
すると今度は彼女が彼に抱きついてキスまでしている。
おい、どういうことだ。
「零。紹介する。私の娘だ。」
えええ! 独身だって言ってたじゃないの? 嘘つき!
「こんにちは。ミアです。父がお世話になりました。」
どう見ても彼女は純粋な日本人じゃない。そういえば…。彼のことまだ話の途中だった。
「大切な人だって聞いています。」
ほらって見せられた携帯には、あの破廉恥な写真が。
「シモネッタさんが送ってくれたんです。」
どいつもこいつも。 唖然とする私の地面まで垂れ下がった顎を見て彼女は微笑んでいる。
「お父さんをよろしくお願いします。」
彼女は可愛くペコリと頭を下げた。
私の立場ってなんなんだろう。
いや、それよりも…。
x
「ご成婚おめでとうございます。」
ささやかなパーティーで私は大きな花束をCPに手渡した。
「そして、今までお世話になりました。これからもCPの教えを忘れずに前進していきたいと思います。」
城長Pが大きなプレゼントを渡した。ブラックバードはある有名画廊オーナーとの婚約を発表した。そして、それとともに退職することになったのだ。
「いよいよ、というかやっと世代交代だな。こう言う状況をWin Winっていうのかもしれないな。」
それはともかく、誰もが笑顔だ。いつになく和やか。
オンラインで世界各地から祝電が届いている。ニューヨークからは有名ギャラリーの友人から。オーストラリアは最高級ホテルの支配人から。フランスからはバレエ団の団長から。ギリシャからはパルテノン神殿にいる中継スタッフから。時差などに関係なくお祝いのメッセージが巨大スクリーンに紹介されている。
「そして最後に届いたのは、イタリアはレンブラントの研究者であり修復家の方からです。『ご結婚おめでとうございます。今まで本当にお世話になりました。先日素敵なあなたの後輩にも会えてご指導の素晴らしさも感じました。素敵な未来を。チャオ!』ということですが、あ、写真も届いています。」
と 壁一面に映写されたのは、あの破廉恥な教授との一枚だった。なんと、教授の手が…。
「キャー!」
悲鳴が上がっている。
「パイフォーカスだなこりゃ。」
Pが呆れている。私はそそくさと黙って会場を後にした。背中で建物が揺れるのを感じた。
恐るべしマンチーク女史。
x
教授の講義は半分以上がダジャレだ。構内に笑い声が充満しているが、学生たちの目は結構真剣だ。
「教授、あんな親父ギャグ学生に通じるんですか?」
「尊い伝統芸を伝承することは私の使命でもある。」
やっぱりどこかズレている。
「今日はなんで呼ばれたのでしょうか?」
「次に行くところが決まった。」
「え、ええ?」
「まぁ、嫌なら無理にとは言わないが…。」
少しはにかんでいるところが心をくすぐる。
「どこですか?」
「あ? あぁ。 イタリアはフィレンツェだ。」
「フィオレンティーナですね?」
「あぁ、ポンテヴェッキオのそばにいい食堂があるんだよ。定食が1500リラだったかな。セコンドまで頼むと2500。早くてうまいんだ。」
「いつの話ですか? 今はユーロですよ。」
「まだあるかな?」
いかん、私が食事の話を切り出してしまった。
「ウフィツィですね。」
「そう、あそこの『ヴィーナスの誕生』だ。」
「まさか、ウィー、茄子とかじゃないでしょうね?」
しまった。教授の冷ややかな流し目が刺さる。
「零、何か人生に疲れていないか? まぁ、そういう年頃だっていうのもわかるが。」
「い、いいえ…。」
「きちんと絵を見てミロ。ってミロのヴィーナスじゃないぞ。」
同じくらいのラベルの親父ギャグじゃないか。最低。
「いいか、もう一度絵をよく見てみろ。どう考えてもおかしいだろ。」
「?」
「ヴィーナスはあの貝から誕生したのか?」
「はい?」
「どう考えてもおかしいだろ。」
「…」
「あのサイズの貝に彼女が入っていたわけがない。大きさが違いすぎる。」
たっく、何考えてるんだこのオヤジ。
「おへそに空気で膨らますバルブでもあるのかな。」
相変わらずだ。
バサっと何かを投げてきた。
「今度の衣装はビアンコだからな。」
…人の承諾もなしに勝手に…。
と、携帯のメッセージ音がする。
「? BB?」
『退職するのやめ。あと三年はいる。あの破廉恥写真許せない。後進の指導にあたる。』
やばい。とんでもない方向に私のベクトルが向かっていないといいけれど…。
エスプレッソマシーンの豆を引く音が部屋に響いている。
つづく?
主な登場人物
沢山 零 48歳
絵画番組担当のアラフォープラスディレクター。すっきりとした性格でそこそこ美人だからか、実年齢より若く見える。頭の回転が早くキャスターも務めている。
立石 真治 61歳
帝都美術大学客員教授。レンブラントなど17世紀ヨーロッパ絵画に詳しい。真面目なところもあるが古いものにはとらわれないという信念がある。しかし、それは対外的には優柔不断と勘違いされること多い。それなりの歳なのに若いつもりがたまにキズ。
城長 悟 53歳 沢山の番組を担当しているプロデューサー。ニュートラルで先見の目はあるが、いまいち押しが弱い。
黒鳥 麗子 65歳 局内きっての切れ者CP。彼女に逆らえるものはまずいない。数々の名番組をプロデュースし、その手腕は業界に轟いている。裕福な家庭に育ったが、今の地位には自らの努力で這い上がっている。
シモネッタ マンチーニ
レンブラントの研究に携わりかれこれ二十年。第一人者のイタリア人。センスのいいおばさま研究家。いい歳なのだが年齢不詳。立石とは昔からの知り合いらしい。
ミア
立石教授の娘? らしい。
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