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涙雨
「生きていくためには、こうするしかなかったんだ」
今しがた帰宅した父。
「ただいま」とも言わずに玄関の扉を開いた。
無造作に靴を脱ぎ、玄関からスリッパの音をさせて、奥の台所へやって来る。父は、僕がソファに座っていることに気づきもしない。疲れきった顔をして、冷蔵庫を開ける。缶ビールを取り出した。見ないでもわかる父のルーティン。
プシュッと缶を開ける音。グビッグビッとビールが喉を流れる音。
いつにしよう。僕の手が微かに震えている。決心したのは、昨日今日のことじゃない。もう、随分前からだ。ーー父を殺そうと。
やっと計画を立て準備しておいたというのに、いつも雨が降って、僕の心を惑わせる。そうなると計画が失敗に終わるんだ。
雨は、特別な日を思い出させる。
母が倒れて入院した日、そして死んだ日、母の葬式も雨の日だった。涙のようにシトシトと降っていた。父が僕を抱きしめて、震えながら嗚咽に堪えていた。Tシャツ越しに父の涙が僕の皮膚に触れて、感染したように僕も泣いた日。
どこで歯車が狂ってしまったのだろう。ーー殺意が芽生えたのだろう。
僕は、父に近づいた。
「おかえり」
父は僕の顔を見て、怪訝な顔をする。
「静子、静子……」
「僕だよ! 直輝だよ! 静子じゃない、直樹だ!」
僕は隠し持っていた包丁で、父に向かって突き刺した。包丁と僕を交互にみつめて、首を横に振り続ける父。僕は慌てて家を出た。計画を立て、頭の中で何度もシュミレーションしたのに、はじめから上手くいかなかった。
どこをどう刺したかなんて覚えていない。刺した感触だけは残った。
こびりついたシミのように。
ああ、雨さえ降ってくれれば……よかったのに。
なんでだろう、涙が零れ落ちる。
母が亡くなってから、家の灯りが薄らいだ。父との関係はギクシャクしたものとなった。間に入っていた母が潤滑剤になってくれていたことが、今なら、よくわかる。小学校の高学年になって生意気なことばかりいう僕に、父は手を焼いた。それでも、初めのうちは懸命に僕の世話をしていた。中学校に上がった頃から、父はよく母と間違えて僕を呼ぶようになった。「静子」と。それでも、たまに僕の名も呼ぶことがあった。けれど、高校に入学した今は、もう僕の名前を呼ぶことはない。
僕は消えてしまったんだ。ーー父の中で。
とぼとぼ歩く僕の肩を、水滴が濡らしたと気づいたときには、雨が降り出していた。それも母の葬儀のときと同じ涙雨が。
とめどなく涙が溢れた。
あのとき、雨が降ってさえくれたなら。
当初の計画では、父を刺したあとネットカフェへ行く予定をしていた。他に行くところがなかったからだ。それさえも大雑把な計画だというのに、実際はネットカフェどころか、ただ闇雲に歩いた。
気がつけば、小さい頃遊んだ公園に来ていた。真っ暗な中、雨のせいで街灯の光も鈍い。ブランコに座り小さく揺れる。
父がブランコに座る僕の背中を押す。そんな懐かしい記憶が蘇った。脳裏に過るのは母ではなく、父との思い出ばかり。なんで人は生まれてくるんだろう。生まれなければ、悲しみも背負うことがないのに。
ふと声が聞こえた。ーー父の声が。
暗闇の先に微かに見える黒い影。僕はブランコを降りた。
「探したじゃないか、直輝!」
父は躊躇もなく僕を抱きしめた。まだ幼かった僕を、母の葬儀の後に抱いたように。確かに刺したはずなのに、父は生きている。しかも、ありえないことに僕の名を呼び、僕を抱いているなんて。顔をくしゃくしゃにして父が泣いている。
「直輝、すまなかった……。父さん、どうかしてたんだ……」
「だって、父さん……」
何を言い出すのか分かっていたのだろう。僕の言葉を遮り、力強く声を張り上げた。
「鞄だ! 気がつかなかったのか? 手に持っていたことに。それにあたったんだ。大丈夫だ! ほら、このとおり」
父は色付きのカットソーを着ていた。さっきはワイシャツだったのに。もしかしたら、服の下はーー考えると怖かった。
「父さん、でも、僕は……」
「悪いのは父さんだ! おまえを追い詰めて、すまなかった。おまえはかけがえのない私の息子だ」
父はあのときとは異なって嗚咽を漏らした。
いつの間にか、雨は止んでいた。
ーー父が言った。
「帰ろう、直輝」と。
了
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