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景色が春色に染まり出す三月中旬。妙に暑い日だ。
私はいつも通り目を覚まして、ベッドから体を起こす。寝方が悪かったのだろうか——足が痺れていた。
かといって動かないわけにもいかないので、びりびりと文句を訴える足を床に置いて立ち上がった。
静かな家で、ただ一人。父も母も仕事で居ない。
寝室を出て、洗面所へ。冴えない自分の顔を見ながら歯を磨く。
それからリビングに行くと、既に読んだ新聞が置かれている。机の上で、静かに捨てられるのを待っている。
二月の中頃に、父が置いていったものだ。捨てたら怒られる気がして捨てないでいる。アイケツについて触れられている箇所にだけ、ご丁寧にも赤い傍線が引いてある。
マルに朝ご飯をやる。マルは食べ終わると、ソファで寛ぐ。私には目もくれないで。
ご飯をもらったらもう用がないらしいが、それはまあ猫からしたら当然なのかもしれない。
私も朝食を摂り、もう一度洗面所に戻って寝癖の殲滅に取りかかる。
今度は、気丈な笑みを浮かべた女の子が鏡に映っていた。
——違う。これは私じゃない。
ああ。足の痺れが全然治らない。
気丈に笑っている女の子の顔が、一瞬だけ歪んだ。
教室に着いたら、カナがまた背中を触ってきた。そして私の顔を見て笑った。紙のペラペラという音が聞こえた。
周囲の人たちも、私の背中を見て笑った。
私も笑った。みんなが笑ったから、笑った。
ユウだけが黙って本を読んでいた。
——足が痛い。
不出来な自分を、クラスのみんなと一緒になって嘲笑うのだ。授業中だって、休み時間だって。
それはとても楽しくて素敵な時間だった。
自己嫌悪が私を甘く酔わせた。
——放課後には、爪先の感覚がなくなっていた。
今日も友達が遊びに誘ってくれた。それを断った付き合いの悪い私を、友達が悪戯で教室に閉じ込めた。
私は滑稽な自分をちょっと嘲笑いながら、太陽に焼かれて真っ赤になった空を見つめた。
春にしてはあまりに鮮烈な夕焼けだった。
もっとよく見ようと窓へ歩み寄る。
——上手く歩けなくてよろける。
ああ。
……ああ、
本当にきれいだ。
こんなにきれいなものを、私の汚れた眼が見つめてもいいのだろうか。
……いや、ダメらしい。
夕焼けは、滲んでぼやけてよく見えなくなった。
不意に背後からガチャン、という音がした。
別段驚きもせずに振り返ると、ユウが教室のドアを開けて入って来ていた。
「ありがとう」
そう言って私は、窓に背を向けて彼女に向き合う。
——いつの間にか、上履きに砂が入っている。
ユウはただ黙って私を見つめている。
あまりに距離が遠いと思って、彼女に一歩ずつ、不器用に歩み寄る。
さっきは気づかなかったが、目の前に立ってよく見ると、彼女は少し泣いていた。
少しびっくりしつつも「どうしたの?」と聞いてみると、彼女の顔は一層濃い悲哀の色を表した。
「ごめん、わからない」
下の目蓋に精一杯留めてあった涙がつーと頬に零れて落ちた。
「どうしたの?」と、私はまた訊ねた。
——視界が傾いた。
彼女が一層悲しそうにした。
どうして悲しそうなのか、私にはさっぱり検討がつかなかった。
……ああ、上履きに砂が入っているのだ。早く取り出したい。気になってしょうがない。
でも大丈夫。彼女は、どれだけ私の上履きに砂が溜まったって困らないし、何も思わないはずだ。
ならばこの涙は——きっと夕日がきれいすぎて感動したために流れたのだろう。
「そうでしょ? 私が砂になっても、ユウは悲しくないでしょ?」
彼女は何も言わなかった。
きっとそれは肯定だ。
私はまた少し笑った。
安堵と自己嫌悪が、無駄に整ったこの満面を彩った。
彼女と同じくらいだった目線が、徐々に下がっていく。どうやら足元から進行していくらしい。
ユウは、何も言わなかった。
次の瞬間、それは肯定ではなかったと知った。
私は泣いた。
胸が苦しくてどうしようもなかった。
下がりつつあった目線が彼女の肩を見て止まる。
不思議と無機質さを感じさせない柔軟剤の匂いが鼻をくすぐる。
彼女からそんな匂いがするのを、今初めて知った。
彼女は、崩れていく私を抱きとめたのだった。
「ごめんね」という震え声が、耳の近くから聞こえた。
その信じられないくらい優しい声は、紛れもなくユウのものだった。
もう全部遅いのに。
私は子供に戻ったように小さくなって、泣きじゃくりながら彼女にしがみついていた。
走馬灯のように思い出す。
本当に小さかった頃のこと。
私が生まれる前、父の甥がアイケツで死んだ。
そんな死に方はありえない。
恥ずかしい。最悪だ。
そう思ったらしい父は、愛情深い子になるようにと、私に「愛」と名付けた。そして、友達をつくれ恋人をつくれ今ある幸せを噛み締めろと、隙あらば私に語りかけた。アイケツについて取り上げられている新聞を見つけては、私に見せていた。母も父に賛同していた。
なのに、父と母はほとんど家にいなかったし、私を褒めたり、一緒に遊んだり、誕生日を祝ったりなんていうことを一切してくれなかった。
普通じゃない家庭の中に在った私は、普通じゃなくなった。
友達も徐々に私の異常性に気づいていき、中学生になる頃には誰も私に話しかけなくなっていた。
私は焦った。
このままではアイケツになってしまう。
何かを愛さなければと思って猫を拾った。自分を愛せればもしくはと思って自分磨きを頑張った。
だけど、それらの行動も結局あまり意味がなかった。
マルは私の無愛想な内面を見透かしたのか、全く懐いてくれなかった。私自身も愛のない自分の内面を知っていた。
だから、鏡にどれだけかわいい顔が映っていても好きにはなれなかった。
「私は幸福で、愛されている」と自分を騙すことは、時間稼ぎにもならなかったらしい。発症してから、それがよくわかった。
今。
砂になった今になってようやく、私は愛されていることを知った。
初めて私を愛してくれた人は、本当に不器用な子だった。どれだけ笑顔で話しかけても、いつも真顔だった。
なのにどうして、崩れゆく今頃になって、そんなに優しく微笑むのだろう。
「……どうして?」
指先が黒く溶けていくのを感じながら私は聞く。彼女の涙が、肩に落ちて泥になる。
「まなちゃんがいなくなったら、私もいつか砂になるんだろうなって。……そしたら、また会えるから」
——ううん、そんなことはない。
君は私と違って、名前の通りだから。
ちゃんと優しくて、人を愛せる子だから。
私みたいに、空っぽな人間じゃないから。
……もしかしたら、マルのことだって愛で肥やして、名前通りのデブ猫にしてやれるかもしれない。……そうだ。
「私が死んだら、マルを……引き取って——」
最初で最後のわがままは、砂の中に消えてちゃんと言い切れなかった。言いたいことはもっとたくさんあるのに、下顎がないからもう言えない。
でもきっと伝わった、大丈夫だ。
砂になるはずだった身体は泥になっていた。涙のせいだろうか。いや。
——きっと人間みんな、最初から砂の塊なのだ。それが、一滴二滴と愛情が加わっていくことで丈夫になっていく。
逆に、愛情を失うと乾いていき、脆くなって崩れるのだ。
この考えを専門家とやらに教えてみたらどうだろうか。
いや、知らない方がいいことなのかもしれない。世の中には、もっと知らなくちゃいけないことが他にたくさんあるだろう。
——例えば、身近な人からの愛情とか。
ユウの泣き顔を見上げ、最後に残った両の目でさよならを伝えた。
血を流して死ねなかった私の代わりに、空がひたすら真っ赤に染まっていた。
「今朝の新聞であの子のことがこんなふうに取り上げられていた。
『△△高校一年生の高橋愛さんが愛情欠乏症により急死。前例では乾いた砂になって発見されていたこの病だが、この件では湿った泥のような状態になって発見されている……』
当たり前だ。彼女は他の人とは違う。最後の最後でちゃんと、私を愛してくれたに違いない。
その、なけなしの愛と、名前の通り丸々と太ったまるを抱きしめながら。
私はきっと生きていける。」
平野優の日記より
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