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後編
少し頭髪に白いものが混じり始めた男が、革張りのソファーの中心を占拠していた。
「という私小説を今回書いてみたのですが、どうでしょうか?」
まだどことなくインクの湿った香りのする紙束の最後の一枚を男がめくったところで、私は男へ伺いを立てた。
湯気の立つマグカップを差し出しながら。
すぐさま男はカップを受け取らず、両手で紙束の表紙をしげしげともう一度眺めていた。
それから「ありがとう」と言ってカップと引き換えに、手に持っていた紙の束を私へと手渡した。
手渡されたものは、私が今朝書き直しを終えた今年出版予定のハードカバーの最終稿だ。
大学を卒業してからしばらく、私は社会人として会社勤めをしていた。
しかし十年ほど働いたのち、自分のなかで昇華できない熱い想いを文章へしたため続けた結果、しがないもの書きとしてひっそりと文壇デビューを果たすこととなったのだ。
二十五年、大きなヒットには恵まれていない。
それでもコンスタントに新作を発表する場には、恵まれていた。
とりあえず喰いっぱぐれることなく、今日までやって来ることができたのは――ひとえに目の前の男が、デビューして間もない私に同居の声を掛けてくれたおかげなのだ。
「左右どちらかに、もう少しずれてもらえませんか?」
紙を受け取った私は感想を聞くため、男の隣へ座ろうとした。
けれど男はどっしりと真ん中に座ったきり、どちらにも動こうとしない。
「あ、意地悪ですか?」
老眼鏡のブリッジを押さえた私は、つい嫌味たらしい言葉が口をついて出てしまう。
年寄る波に勝てないようで、この頃私の視力はだいぶ老眼が進行してきている。
あと何冊、私は執筆できるだろうか。
それだけじゃない。
あとどれくらい、この男の隣へ座ることができるだろうか。
目下、老いと自分への価値へ深刻に悩んでいた。
「いや、意地悪じゃないだろう?」
男はそう言うと目の前のローテーブルにカップを置き、自身の両腿をとんとんと二回掌で叩いた。
「じゃあ、なんですか?」
呆れながら私は返した。
「ほら」
今度はまるで若い恋人にするような甘い口調で、男は大きく両手を広げる。
瞬間、男の胸元からは若者にはない、年を重ねた男の香りにふわりと交じった上質なシトラスが立ちのぼった。
香りものに柑橘系を好むのは、今も昔も変わらないらしい。
思春期からの刷り込みでずっと似たような香りをつけている可能性も考えられるが、これでいい。
このシトラスの香りこそが、男の匂いなのだと、私の鼻腔が長年記憶している。
「なんですか、その手は」
素っ気なく私は応えた。
男の意図は分かっている。
けれど羞恥心から私は、視線をフローリングの床へと滑らせていた。
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