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「……松木」
「は、はいっ」
呼ばれた私は居住まいを正した。
「先ほどフィクションだと言っていたが、余命宣告されるような病気を……実際にも患っている、なんてことはないだろう、な?」
確かめるような視線を向けられた。
「あ、」
そのことか、と思った。
「なんだ? 心当たりがあるのか?」
私の両肩を力いっぱい掴んで大きく揺すった。
そうか。
作中の「松木」は余命宣告を受け、「あなた」への忘れえぬ想いを伝えにいくのだ。
「どうなんだ?」
いつの間にか私は、あなたと向き合うような姿勢を取らされていた。
もちろんあなたの膝の上で。
キスの尋問という蕩けそうに甘いオプションまでついて。
大事にされているなあと思う。
二十五年前よりも、十年前よりも、そして昨日よりも今この瞬間のほうが。
「もし真実だったら、俺は松木のために定年を待つことなく仕事を辞めて、看病する。毎日傍にいる」
私の手を取って、真剣な面持ちで伝えてきた。
掴む手が微かに震えている。
今さらそれもフィクションだ、なんて訂正しずらい。
けれど……。
「松木のことが大好きだから、一日でも長く生きてほしい」
真摯な態度で臨んだあなたの肩へと、私はぎゅっとしがみついていた。
「余命なんてないんです。たしかにドッグで数値は引っかかってしまいましたが、余命は物語を盛り上げるフィクションなんです。むしろ私のほうこそ、あとどれくらいあなたの傍にいてもいいのか……」
感極まってそれ以上の言葉を失う。
同時に、しがみついていた屈強な肩がわかりやすく弛緩した。
途端、あなたは憑き物が落ちたように腹から大きな息を吐き出す。
それから、よかったと何度も何度も現実を噛み締めるように呟いた。
その様子を見た私は、申し訳なさとともに愛されていることを、胸に拡がる甘酸っぱさで改めて痛感した。
「悪いけど俺は百歳まで生きる予定だし、それまで松木を手放すつもりもない。だからその本は私小説ではなく、フィクションだと編集さんに伝えておけよ?」
念を押すようにあなたが詰寄ってきた。
「そうですね。そのように訂正しておきます。あなたのような執着がすごい男と、諦めの悪い男の真実の恋物語なんて、やはり世間からの需要はないですから――二人だけの秘密にしておくのが最善かもしれませんね」
そう言って今度は私のほうが、頭を撫でてほしくてねだるように首を前に差し出した。
追いかけた恋の先にあった事実は、小説より奇なり。
こうして今の私は、あなたに頭を撫でてほしくてねだることもできるようになったし、またあなたが頭を撫でてほしいと訴えれば撫でてあげることもできるようになった。
人生はいつどうなるかは、分からない。
後日、 「と或る恋。」――表紙に達筆な文字で書かれた作品が、三十五年愛の純愛と銘打たれた帯をつけて、文壇の片隅でひっそり発表された。
了
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