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カタカタとあの名の知らない道具は音をたてているのだろうか。記憶に残るものからは確かにそんな音がしていたはずだ。今ならどうだろうか。あれの音を聞いたのは何十年も前のことだから、もしかしたら今は時代の移り変わりと共に性能が上がり、バージョンアップして、アナログな音はしなくなっているかもしれない。
学校用品のカタログかなにかに「スムーズな動作音、快適な粉の送り出しには定評があります。動かすだけで濃く、まっすぐに線が引けます」なんてキャッチコピーを添えてあの赤い手動で動く箱は売られているのかもしれない。
明日は雨なのに──
ひとりの母親がこれから仕事に向かうために早足で校門を後にしながら校庭を振り返った。
今日ひいた白線は、明日には、ううん、今日の夜には水に流れてしまうだろう。だけどひかないわけにはいかないか──
振り返って見た校庭では、数人の先生がその長さを確認しながらまっすぐな線をひいたり、緩やかな曲線を描いたりして、いつもよりも入念に白線をひいている。その表情は真剣で、用事があっても呼び止められないような神妙さがある。
それは、その日に行われた体力テストのためのものだったと母親は帰って聞いた子どもの話から、なるほど、それは大事なものだったろうと合点がいった。
「明日はどう?登校班に並んで行けそうかな?」
「大丈夫、あしたは」
期待はしても、それが外れてもがっかりしちゃいけない。そう自分に言い聞かせて、母親はまた明日もこの子を学校に送って行くのかと考えると朝が来るのが憂鬱になる。朝が来るのが怖いと、夜寝るのまで嫌がるようになる。寝たら朝が来てしまうからだ。
──学校に来てしまえば、楽しくやっていますよ
担任の先生からそう言われ続けて、もう3年が経つ。登校班に並んで小学校に行くのを嫌がる長男を母親はあの手この手で送って行く。
学校に行きさえすれば。その「行きさえすれば」がひどく重い。不安が勝る朝は着替えることもできない長男には行くことだけが1日の中でとても重要で、一大事業であるようなのだ。
家と学校を繋ぐトンネルがあって、この子をセットして圧縮した空気で自分の席まで送り込むことができたら、どんなにいいだろう──
昔読んだ小説に、似たようなものがあった。朝になると寝床ごと起き上がり、機械が歯磨き、洗顔をしてくれる。ベルトコンベアに立ったまま乗せられて、機械に着替えさせられて、朝食を口に運ばれて、鞄を持たされて外に出る…。
あれって、未来を描いたSF小説だったけど、仕事に行きたくない人間を強制的に外に出す装置だったのかもしれない。
そんなことを考えていたら、母親の気持ちは少し晴れた。明日は金曜日だし、土日は長男を小学校に送らなくてすむ。だけどまた、月曜日が来るのが怖い。金曜日は1週間を振り返ると、泣けてくる。どうしてこの子はいってきますと玄関から飛び出して行ってくれないんだろう?私の育て方が悪かったんだ。それからお産も少し時間がかかったから、あの子の脳に負担がかかってしまったのかもしれない。上手に産んであげなかった私が…やっぱり私が悪いんだ。
なんで学校に行かなくちゃいけないんだろう?とこれもまた、いつもの考えに取り憑かれる。こんなに嫌がってるのに。もう行かなくたっていい。だけど、帰って来るとなんであんなに清々しい顔をしているんだろう。
「ねえ、学校楽しい?」
「うん、楽しい」
「そう、じゃあなんで朝、あんなに嫌がるの?」
「……わかんない」
「来週、リハビリだから早退だね。連絡帳に早めに書いておくから、自分でも言ってね」
「うん!なにしようかな!トランポリンは絶対したいし…」
月に1度のリハビリと、数ヶ月に1度の専門医の診察。長男が発達障害であるとの診断は出ない。よく言われるグレーゾーンというやつか。診断名をください、と母親はまだ言えずにいるだけだ。
話を切り上げながら、ゲーム機を取り出す長男を見て母親はそれを取り上げる。
「もう9時だからだめ」
「ええ!今日全然やってない…!」
「それは自分がやってなかったんだから、いいの。だめ」
「なんでだよ!つまんない!じゃあいいよ!明日は学校行かないから!」
「はいはい、じゃあ楽しみなリハビリも連れて行かないから!」
「なんでだよぉ……!」
ゲーム機を奪おうと縋りつく長男に負けるまいと、母親は頭上にゲーム機を掲げる。わかったよ、が出てくるまで。
1年生から学校に行けなくて、2年生の頃に長男は特別支援学級に籍を移した。先生から提案をされた時に、お願いしますと即答をしたのは母親がそれを望んでいたからだ。
でも、いいなぁと思う。彼がお荷物になってしまった通常学級で過ごす27人の子ども達は、毎日登校班に並んで学校に来られていいなぁ。こんなに癇癪を起こさなくて、毎日学校に送らなくてよくて、いいなぁ。本当は納得できない。今でもこの子は通常学級でもなんとかならなかったものかと母親は思うことがある。いいなぁ、いいなぁ。
母親の頭上で熱を持ってチャカチャカとオープニングソングを流していたゲーム機が静かになった。開始の儀式を終えて、ゲームを始める合図のAボタンが押されるのを、それは待っているのだ。
「わかったよ、寝るよ!」
以前よりも早くなった「わかったよ」が発せられて、母親は頭上からゲーム機を下ろす。
「すごいじゃん、早い。すばらしー!」
ニッと笑って、長男はゲーム機のAは押さずに、電源ボタンを押して画面を暗く静かにした。
すごいじゃん。こんなこと、27人の子どもは前からできるに違いないのに。そう思いながらも、やっと切り替えが早くなってきた長男の進歩に嬉しい涙が出そうなくらい、母親は感動していた。
※※※
円を描き始めたその道具を繰る先生の足が、ぐるりと一周をして戻ると、ピタリとそれは始点と重なり合う。母親は早足で歩きながら思わず拍手をしそうになった。
すごいじゃん。
昨夜、いやいつも、繰り返しているフレーズを母親は心の中で呟いた。
あいつはすごくないけどね!
後ろを振り返らずにぐんぐんと歩く。後方では白線をひくのを中断して長男を引き受けてくれた支援学級の担任がその肩を掴んでいるだろう。恨めしそうにこちらを見ている長男の顔を想像した。
でも、帰ったら、学校に行けてすごいじゃん、すばらしーって言ってあげよう。
昨日は雨に濡れて、前日にひかれた線が全て洗い流された校庭に、今日はまた美しく真っ直ぐに、真ん丸に白線がひかれている。
毎日、毎日、先生たちは白線をひいている。子どもに踏まれて、雨に流されて消えてしまうのに、ならば引かなければいい、とはならないのは、それが必要な線だからだ。
流されても、消されても、毎日ひく。その上を走る子どもがやがて成長して卒業していく日のために、今日も白線はひかれている。
あの赤い、名のしれない道具を私もカタカタと押しているのかもしれないなと考えた母親が、瞳に滲んでいた涙、今日のは悲しい方だったけど、それをぐっと拭って無理矢理に口角を上げた。
楽しげだったり、俯いたり、お喋りしたり、長男と同じように母親と一緒だったり、それぞれの朝の顔をした小学生の登校班とすれ違って、おはようございますと母親は挨拶をした。
校庭ではあの美しい白線がずっとそこにあったような顔をして、この列が到着するのを待っている。それから先生も、真っ白になった手を洗って、当たり前のような顔をして子どもたちが教室に来るのを待っている。
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