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一章 時化空
『雨?そんなのファンタジーの世界だよ。空から滴が落ちてくるなんて考えられもしないでしょう?』
自然に満ちたこの『街』は、どこか他とは隔離されているようで時々疎外感を感じる。
「千晴も生まれてから見たことがないでしょ?だからこの街に雨なんて存在しないんだよ」
人口数百人程度のこの街で唯一の『子供』として生まれ、育てられた私はこの街の人に愛されて生きてきた。自然の中で生活を営み、動物と戯れ、風と歌う、そんな街。私の『千晴』という名もこの街に住む人全員で考えたそうで、幼い頃から母に『いつこの街を離れることになったとしても、この街に愛された分、この街を愛する人でいなさい』と教えられてきた。
「でもずっと晴れなんて心地いいね。暖かくて明るくて私は好きだな」
「さすが!千晴はやっぱり晴れに愛されている子だものね」
隣の家のおばさんと花壇の植え替えをしながら冗談交じりに他愛のない会話をする。
「おばさんは雨を見てみたいと思うことはないの?」
「どうだろうねぇ。もう何十年もここに住んでいたら考えることも忘れちゃうわよね」
笑いながら語るおばさんから本当にこの街を好きでいるのだと感じる。
「すみません、この街の方ですか?」
背後からスーツ姿の男性に声を掛けられた。
「そうですけど……どちら様ですか?」
見慣れない格好と『この街の方』という口調から来客であることを察した。
「私は世界環境整備委員会という組織の者でして……」
泥のついた手袋を外し名刺を受け取るおばさんの表情には見たこともない程の警戒心が含まれていた。
「世界環境整備委員会……?」
「簡単に説明しますと近年問題視されている『地球環境問題』の解決に最前線で取り組んでいる組織です」
「そんな方々がなぜこの街に……?」
「この街の『気象異常』が組織の基準を満たさないものと判断がくだされてしまったことをご報告に参りました」
「この街は自然に溢れていて環境の敵になるようなものは一切ありません……!『気象異常』なんてどうして」
「『雨』が降らないことですよ」
否定できない事実が、おばさんの言葉を詰まらせる。
「それが……どうなるんですか?私たちの手ではどうにもできないようなこと……」
「本日から一年、このような状況が改善されないようであればこの街を無くすという対処に至りました。」
「この街を……?」
会話を遮らないように心がけていたつもりでも無意識に衝撃が漏れ出る。
「お嬢ちゃんには申し訳ないけれど決まってしまったことは仕方がないんだ」
「何か……できることはないんですか?私たちにできること……」
おばさんの声には若干の抵抗とそれに勝る寂しさが込められていた。
「こればかりは仕方のないことです……皆様が現状を打破することはほぼ不可能かと思われます」
「そんな……」
「一年の中で一度でも雨が降れば……この街は無くならずに済むってことですよね?」
「お嬢ちゃんの言う通りなんだけど……一度も雨が降ったことのないこの街にそんなことがあるとは到底思えないよ」
「私は諦めたくありません。だから一年間、どうかこの街を見放さないでいてください」
通告書を見て落胆するおばさんの隣で根拠のない希望を約束してしまう自分自身の無力さに唇を噛む。
「それでは月に一度この街を訪問させていただきますので」
「お兄さん……!最後に名前を」
「申し遅れました私は『日野森 晴矢』と申します。それでは失礼します」
淡々と去ってしまう男性の背を見送ると、おばさんによってすぐにその話は街全体に広がった。涙を流す者とは対照に、異様に冷静に事実を呑み込む者がいる。その一人が母だった。
「お母さんはどうしてそんなに落ち着いていられるの?」
「きっと、大丈夫になるからよ」
「どうしてそんなに冷静でいられるのか私にはわからないよ」
「千晴はこの街のことどう思ってる?」
「それは……ずっとずっと大切にしていたい。この街に住む人も全部が大好きで、愛されてきたから私も愛していたい。無くすなんてそんなこと……嫌だよ」
「千晴の想いに嘘がなければ大丈夫になるから、あとは信じて待ちなさい」
母はそう言って微笑みながら私の頭を撫でる。
ー*ー*ー*ー*ー
その日からも、街に雨が降ることは一瞬もなかった。タイムリミットまで残り三日となり、焦りと不安に包まれるなか私はただ母から言われた『信じて待つ』という理想論に縋っている。
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