出奔

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出奔

 夜明けを待って家を出た。  深い眠りの妻と娘の顔を見て、ほんの少し後悔の念が沸き起こるが、それを振り切り、私は最寄りの駅へと急いだ。
  所謂出奔というやつだ。別に会社の金を横領したわけでも、人を殺したということでもない。きっかけは、私がネット小説を書いていることが、とうとう娘に見られてしまったことに始まる。  まだ九歳の娘に理解は難しいだろうと楽観していたのだが、妻から、「あなた書いているの、小説?」と問われ、飲みかけのコーヒーを喉に詰まらせそうになったことがあった。
それからというものネット小説を書くときは、妻や娘が就寝した深夜に限定していた。            それなのに三日前、作業をしている背後で微かな音がして振り向くと、「パパの小説、ランキングに入ってないね? なんで?」と瞼を擦りながら娘が立っていたのには、寒気すら感じてしまった。

 「パパの話は難しいんだよ。分かる人には分かるんだ! それより、夏は早く寝ないと、朝起きられないだろう」

 「あのね、律ちゃんが云ってたよ。ほんとうに賢い人は、人に分かるように話せる人だって。小説は違うの?」

 「は、早く寝なさい!」

   夏の云うことは一理と云わず、的中していると思えた。夏は私の剣幕に、慌てて寝室に駆け込んだが、その後の作業は進まなかった。     どんなにかぶりを振ろうとも、娘の言葉が頭から離れず、私を失意のどん底へと落とした。

    どこかで分かっていたはずなのに、認めようとしてなかった。それを、まさかよりにもよって娘の口から聴かされようとは。

  翌日、出社した私は、上司の三井に呼び出された。発注ミスを指摘してきたのだが、そもそも発注したのは同僚の小森であり、それを課長である三井が確認印を押したのだから、責任は私にないはずだ。いつもなら、冗談を飛ばし受け流していたのに、私は口角を上向けて笑みを作ることすらできなかった。 「いい加減にして下さい! 三井さん、あんたのミスを人に押し付けないでくださいよ」

  一度放った言葉は飲むことはできない。昨夜から続くむしゃくしゃした感情が、私の胸の内では収まらず、仕事へも影響を及ぼした。  発注について三井は押し黙り、目を合わすこともなくなった。次の日も、三井は私を無視し続けた。

  帰宅した私に出された夕食は、カレーピラフだった。昨夜はパスタで、その前はハンバーグ。その前はお好み焼きだ。三井のときと同様に、冷静さを欠いた私は、妻にまで怒鳴ってしまった。

 「これが夕食なのか! ままごとをやっているんじゃないんだぞ!」
  私は一口も口にすることなく、冷蔵庫から取り出した缶ビールを呷り、驚いた妻をそのままに作業部屋へと引き上げた。

    妻の料理も、三井の嫌がらせも昨日今日始まったことではないのだから、原因は彼等じゃない。私も三井と同じで、自分自身の苛立をぶつけたにしかすぎない。そうだ、このネット小説なのだ、原因は。いや違う。私自身の未熟さだ。
 「パパ、ママが心配してたよ」

   夏がひょっこり顔を覗かせた。

 「パパ、具合が悪いんだ。少し休むから、夏、ママに心配しないでと云っておいてくれるかな」

 「うん……。夏、パパのお話好きだよ。でもね、いつも同じ場所にいる気がするの」

   夏が階下に降りて行く音を聞くうちに、私はいつの間にか転寝をし、夢を見ていた。

はっきりと覚えてはいないが、ドキドキして、子供の頃にもどったようにはしゃいでいたと思う。

突然『冒険』の二文字がちらついて、私ははっとした。財布を持って、寝室に寝ている二人の顔を覗き込むと家を出た。最寄りの駅から乗車して、いくつかの駅をやり過ごすと目的の看板が見えてくる。私はその看板を目にして、慌てて下車した。通勤時発見していたが、使うことになるとは思いもしなかった。  駅前通りのパチンコに隣接した雑居ビルの五階に、目的のネットフェはある。
 「お客様、何時間のご利用でしょうか?」
 「納得いくまで……」

 「はぁ?」

 「暫く泊まり込みたいのですが、可能でしょうか?」 
 二十代前半だろうか。若い店員は、余程私のことが不審に思えたのか、全身を舐めるように見てきた。そして、「身分証をお持ちでしょうか」と問う。

   私は財布の中から免許証を出して一通りの手続きの後、奥の禁煙室の座敷に着くことができた。


   ここなら、私を知る者はいないのだから、誰に気兼ねすることなく書けるに違いない。  さっそくログインし、私は書庫の中から一つを選んで続きを書き始めた。

   夏の云った、「いつも同じところにいる気がするの」という言葉を思い出し、作品を冒頭から読み直してみたが、まさにその通りだった。あのとき見た夢のように、ドキドキもしなければハラハラもしない。まるで私の生きてきた日常が描かれているだけで、つまらないとしか云いようがなかった。

   作者自ら認めるのだから、そんな作品では、誰の心も惹きつけはしないだろう。何もないところへ文字を使って奥行きを出し、世界を紡ぎ出すことは容易ではない。ときには苦しさが付き纏うが、それでも描きたいと熱望が止まない私は、病気に違いない。病気だっていいさ。きっと書くことを止めたのなら、私は生きている意味がないように思えるのだから。  暫くPC画面とにらめっこをするが、キーボードの上を指先が踊ることはなかった。

   疂一畳ほどの狭い空間だが、不思議と苦痛はない。禁煙席を指定したはずなのに、どこからともなく煙草の匂いが漂ってきたのには、正直不快だった。それ以外は、隣室の男の鼾や歯ぎしりがうるさいとか、どこかでおならをした者がいたとか、そんなことは些細なことだ。ネックなのは、私が納得いくものが描けるかということなのだから。それなのに、先刻から、私の思考も躯もフリーズしてしまって、それが煙草の匂いよりも問題点と云えた。 「兄ちゃん、あんたこれ持ってないか?」  

いきなりドアを開けて、向かい側の年配の男が声をかけてきた。二本指を示され、煙草だと暗黙に理解した私は、吸わないのでと断りをいれた。男は悪びれることもなく残念そうな顔をして、視線は私の開いた画面に及んだ。

 「ヘぇ、兄ちゃんが小説を書いているのか? どれどれ」

   男は何日も風呂に入ってないのか体臭が匂った。ずかずかと入り込んで暫く私の小説を読み耽り、「漢字だらけで、しかも俺の読める漢字が少ない」と云って去って行った。

なるほど漢字か。私は急いで漢字をひらがなに、なるべく難しい言葉を誰もが読み易い明瞭なものに変えてみた。

   昨夜から何も食べてなかった私は、腹の虫が騒ぎ出したのを皮切りに、受付に足を運び注文をした。会社では蕎麦や寿司、和食のランチを摂るが、今日はなぜか、妻の作るメニューばかりが連想され、炒飯を頼んだ。

   部屋に戻ると、「ごめん、お邪魔しているよ! これ、あんたの作品?」と問いかけてくる若い茶髪の男が、半腰の体勢で振り返った。私が頷くと、「なんだ、空飛んだりとかしないんだな」と云う。  私は虚を突かれ、どきりとした。 「これSFでもファンタジーでもなく、ヒューマンドラマだから」
 「ふうん、ヒューマンドラマだと、お笑いみたいに爆笑したりできないの? 驚いたりとかさ」

 「最近の若い子は、例えばどんなことで驚いて、爆笑するの?」

   今度は、私の方が若い男に訊ねてみた。
 「昔やったことがあるだろう? いつ、どこで、誰が、どうしたていうゲーム。例えば、いつは今日にして、どこでは、そうだな、ここにしよう。ネットカフェだ。誰はあんたに、どうした……は……」  
   若い男はにやけた顔をして、私の顔を覗き込む。嫌な予感はしたが、私は、男に話しの続きを促した。

 「俺とキスをしたとかさ……。不愉快なうえに、驚きが加わっただろう? 何でだってさ。アメイジングが足んないじゃねぇ?」  若い男はにやけた笑みに、ウインクまで寄越して出て行った。どこまでが本気で冗談なのか、全く分からない私は、もしやと考えただけで身が竦む。

   長年我慢してきたことを、上司や妻に面と向かって云えた。小説だって我流を変えることができた。そうだ、もっと自由でいいのだ。  彼の云う、アメイジングが必要なのだ!  運ばれてきたランチに箸を付けることも忘れて、PCに向かった。滑らかに私の指先がキーボードの上を滑る。更新した内容は、どこか息が吹き込まれたように心地よい。誰かがスターを投げた。次にコメントが寄せられた。   内容は、『主人公は、翼を手にしたのだから、これからどこへでも飛んでいけるね。お家にだって帰ってこられるよね、きっと。待っているから。夏』とあった。  そうだね、この主人公の作家は、ようやく自由という翼を手にしたのだから。 了
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