一、纏座の興行

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 穏やかで凜と通る声に名前を呼ばれ、振り返る。そこには長い前髪で目元を隠した環が、今朝刷ったばかりのちらしを手に立っていた。 「兄さん。打ち合わせは終わったの?」 「ああ。あとはそれぞれ玄人にお願いするよ。席の埋まり具合はどうだい? 中を見ているとそろそろ立ち見席への案内になりそうだけど」 「ええ。あとは同伴席が少しと、男女席はそれぞれ残り二席ほどよ」 「さすが、今日は早いな」 「皆さんお待ちかねの幸三郎(こうざぶろう)ですもの」  侍である幸三郎の活躍を喜劇として描いた、古都監督の人気連作。それに纏座専属の人気弁士、青垣が説明を付けるのだ。話題にならないはずがない。 「早めに開けたけど、これじゃあ時間よりもだいぶ早く満席になるな。換気も気をつけないと」 「いざとなったら私たちも団扇を持って参戦するわ」 「それは心強いな」  前髪の向こうで、柔らかに目が細められる。この笑顔を見る度に、サヨは環が顔を隠していることを勿体ないと思う。 「それじゃあ少しだけ配って呼び込みしたら、僕は売り子に行くよ」 「大丈夫なの?」 「うん。札売係は頼むな」 「はーい、任せて」  初日ということで、主任弁士である青垣の前に館長の挨拶も予定されていた。館長の体調次第で、それは環の役割となる。 「今日、啓蔵(けいぞう)さんは?」  サヨが自分よりもさらに上背のある環に顔を寄せ、声を潜めて問い掛ける。環も僅かに背を屈め、首を横に振った。 「さっき様子を見てきたけど、大きな声は厳しいと思う。僕が出る予定だよ」 「そう……」  現館長、出巻(いでまき)啓蔵は生まれつき身体が弱い。どこが悪いということではなく、外で風に当たれば夜には咳き込み熱を出した。喉は頻繁に腫れ、声帯はその度に嗄れて、常に顔色が悪い。そんな状態で育ったのだから、勿論体力もなかった。  しかし親譲りか商才はあり、弁も立つ。身体さえ問題がなければ、類い希なる優秀な館長だった。  環は啓蔵から経理や接客を教わりながら住み込として働くことになり、直後から館長代理を務めている。  突然現れた血縁者でもない若者が館内を取り仕切る。そのことにとやかく言う人間も当然いたけれど、今なお心無い言葉を投げつけてくるのは外の人間ばかりだ。誰にでも優しく、聡明で誠実な環とサヨを悪く言う者はこの纏座にはいない。 「頑張って、兄さん」 「うん。ありがとう」  ちらしを配りながら朗々とした口上で呼び込む環を、サヨは合間をぬい札売の窓から見つめた。  すとんと降りた髪で隠れた目、細い肩、書生のような袴姿。一見すると大人しそうな環の口からは、凜とした声と芯のある言葉が放たれる。これで顔も出すようになったら、その印象はきっと今と真逆のものになるだろう。 「勿体ないな……」  サヨは誰にも聞こえないよう、ぽつんと呟いた。仕方のないことだという思いと、折角ここまで来たのにという思い、両方が押し寄せて溜息を吐く。 「サヨ? どうかしたか?」 「何でもないよ、兄さん」  こんな騒がしい場所で、こんな小さな溜息一つを聞き逃さない。環は本当に優しくて、自慢の兄だ。
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