9人が本棚に入れています
本棚に追加
数日後、母が死んだ。眠るように息を引き取った彼女は幸せそうにほほ笑んでいた。
「かか様……」
兄は嘆き悲しんでいたが、つつじは泣くことさえできなかった。母の手はいつも冷たかった。だから握った手が冷たくても眠っているだけだと信じたかった。白昼の光に照らされて横たわる母は美しかった。
「つつじ、かか様はやっと休めるのだ。手を離しておやり」
父にそっと手に触れられ、すでに葬儀の支度が始まっていることに気付いた。手を握っていてはいけないのだ。もうこの手を離さなければいけないのだ。聞こえているのに、見えているのに、身体が動かなかった。
父の大きな手でそっと手を引きはがされ、母の躯を棺に納める支度が始まった。痩せこけた白い身体は風雨にさらされた白骨のようだった。父のいう通り、母はやっと休めるというほど苦しみに耐えて生きていたのだろう。ひと時の安寧と幸福を得て、また苦しみに沈んで行った。
母の目元を覆う布が外された。一度として見たことのなかった目元はつつじによく似ていた。ガラス玉のように空を見る目は濁ってはいるが金色をしていた。
「つつじ、そちの目は母に似たのだ。そちだけが金の目をしているのも母と同じ。母がどうしてもと欲しがって生まれたのがそちだ。ろくろく抱いてやることもできず、寝付き、悔いておることも多かったが、そちの母になれて幸せだったと……」
父の声が震える。母の弱い身体では一人が限度と父は子を作るのを避けていたのだという。けれど、どうしてももう一人授けてほしいと乞い願われ、父が折れた。そうして生まれたのがつつじだとみつに聞かされた。つつじを産むことで弱りはてた母はそのままじわじわと弱り続けた。直景が手をつくしたからどうにか生きていただけなのだろう。
「かか様……かか様ぁ!」
わっと涙が溢れると止まらなくなった。父にしがみつき、つつじは泣きじゃくった。母はもうこの世にいない。きっと鯨が連れて行ったのだ。不思議とそう思った。
葬儀の間、つつじはずっと泣いていた。しゃくりあげながら経を読み、震える手を合わせた。ときおりしか会えなくても、あの冷たく細い手で撫でてもらえればそれでよかったのだ。乳母や小太郎といる時間の方が長く大事にされていても、母には代えられない。まだ十二になったばかりのつつじには母が必要だった。
「姫、丘に行こう」
泣き伏してばかりいるつつじを見かねたのか小太郎が声をかけた。出かける気分ではなかったが、閉じこもっていても何も変わらない。泣いていても母は蘇らないのだから。
頷くと市女笠を武骨な手で被せてくれた。
「おぶうてやる」
いつものように小太郎の背におぶさる。どんどんたくましくなっていく乳兄弟の背は広くてあたたかい。つつじは頬を彼の背に押し付ける。
小太郎はつつじを慰めようとしてくれている。つつじが悲しんでいる時、丘に行くといつも気が晴れた。小太郎はそれを知っているから丘に行こうといってくれたのだ。言葉で慰めることを得意としない小太郎なりのやさしさだ。
小太郎のやさしさに甘えて、少しだけ悲しみが和らいだ。
「小太郎、そなたがわらわより先に逝んだらこれごときですまぬよって、覚えておくのじゃ」
肩口でそう言うと小太郎はくと笑った。
「姫が心配で先に死ねるかよ」
「それでよい」
丘の上につくと小太郎は敷物の上に下ろしてくれた。つつじの外出には必ず三人以上の護衛が付き従う。つつじが気にかけなかっただけでほかの護衛が敷物を用意してくれたのだろう。
鯨が一際高く歌うのが聞こえて、つつじは空を見上げる。見たこともないほど近くに鯨が浮かんでいた。顎の下の畝までよく見える。どんどんこちらに近付いているようにも見える。
「鯨が……」
小太郎に教えようと手を伸ばす。突如として頭の芯を揺さぶるような声が聞こえた。呼ばれた。とつつじは思った。何度も何度も重く響く声の奥に母の声が聞こえた気がした。答えてはならない。行ってはならない。わかっているのに身体が動いた。
「今、参ります」
つつじは諸手を天に差し伸べる。身体が、ふわ、と浮かんだ。
「姫!」
呼ばわる声にはっと振り返ると小太郎がずっと下にいた。つつじが立っているのは鯨の背だった。いつの間にここに来てしまったのかわからない。風で虫の垂れ衣が揺れる。
「跳べ! 受け止める!」
走って追ってくる小太郎と護衛たちがみるみる小さくなる。今跳べば戻れる。だが、怖気が先に立ってつつじは動くことさえできなかった。
「姫ぇええええ!」
必死の叫びは耳に届くのに身体が動かない。小太郎はどんどん遠ざかる。
「小太郎……助けて……」
やっと絞り出した声は蚊の鳴くようで、膝が震える。小太郎の声が聞こえなくなると立っていられず、座り込んだ。
「なぜじゃ」
意外なほどつるりとした鯨の背をぺちりと叩く。
「なぜ、わらわを呼んだ! 降ろせ! 降ろすのじゃ!」
叩いても手が痛くなるばかりで鯨は泳ぐのをやめない。山ほどもある鯨にとってつつじなど小さくて取るに足りない存在のはずだ。なのに、どうして呼ばれ、背に乗せられたのかわからない。
「帰して……とと様のところに帰して……小太郎……」
どうしたらいいのかわからず泣き伏すことしかできない。一人で出かけたことなどない。本当の意味で一人きりになったことのないつつじは怖くて仕方がなかった。鯨の背から降りたいのに高くてとても降りられない。呼ばれても返事をしてはならないと教えられていたのに返事をしてしまったせいだ。後悔してももう遅い。
「そんなに泣かないでいただけると助かるのですが」
困ったような優しげな声に顔を上げたが、姿は見えない。
「誰じゃ」
「あなたの足元。千年鯨、とヒトは呼びます」
「鯨……」
歌よりも低く穏やかな声だった。けれど、そう言われれば確かに聞き覚えがある。
「あなたとお話したいだけです。そのうちお返ししますから」
「いやじゃ。今すぐ帰すのじゃ」
「困りましたね」
言葉とは裏腹にのんびりした声だった。
「飲み物でもいかがです?」
つつじの目の前に突然小さな器に入った飲み物が現れた。花のように甘い香りがする。鯨は本当に話したいだけなのだろうか。
「おいしいですよ。前に呼んだ人間は喜んでくれました」
「それはかか様のことか?」
「かかさま? 母親のことでしたか?」
「そうじゃ。名をひなという」
「ああ、そんな名前でした」
鯨はくぐもった声で笑った。
「ひなは元気ですか?」
「五日前に亡うなった」
「そうでしたか」
哀れむような口ぶりではあったが、興味のなさそうな声だった。千年も生きているという鯨にとって人間の生き死になどどうでもいいのだろうか。つつじは無性に腹が立った。
「かか様はそなたに呼ばれた後、心を病み、目を潰し、身分違いの男と結婚させられたのじゃ! 厄介払いよ! 幸せになりはしたが弱くなった身体でまだお若いのに亡くなったのじゃ! お前のせいじゃ!」
「私のせいじゃありませんよ」
ひどく冷たい声だった。
「ひなは不幸せそうでした。だから呼んだんです。君もそう。少しでも心を穏やかにしてあげたくて、空を見せてあげているだけ。そして一つ望みを叶えてあげる」
「望み?」
「ひなは幸せになりたいと望みました。帝との婚儀を控え、ひなは怯えていた。だから、乱心したふりをして目を潰せば本当に愛してくれる男に会えるようにしてあげると約束しました」
つつじはぞっとした。確かに望みを叶えたかもしれないが、ひなは視力も健康な身体も失った。そうまでしてひなは幸せを手に入れたかったのだろうか。宮中の良くないうわさを聞くことは多い。ただただやさしく大人しい母が生き抜けたとは思えない。だが、だからといって目を潰すなど、普通出来ることではない。この鯨がそそのかしたのだ。
「君も幸せになりたいでしょう?」
怯えに後ずさろうにもそこは鯨の上で、逃げる先もない。
「ねぇ、つつじ姫。君の望みはなんですか?」
「望みなどない!」
「望みがない人間なんていませんよ」
嫌になる程甘ったるい声だった。
つつじは唇をぎりと噛み締める。鯨の言う通りだ。望みはある。母にもう一度会いたい。けれど、そう話せば鯨は恐ろしいことを要求して来るだろう。幸福の対価に目を奪った鯨。死者と会うことを望んだらどうなるか想像もしたくない。
「つつじ姫、お話しましょう? ね? おいしい飲み物もあります。気持ちが落ち着きますよ」
小さな器がざわりと動く。飲んではならない。触れたくもない。なのに抗いがたい力で手が器をゆっくりと持ち上げる。
「いやじゃ! 飲みとうない!」
必死に叫んでも力は消えない。
「やじゃ! とと様! 小太郎!」
どうにか器を振り捨てると力が消えた。鯨が残念そうに息を吐く。
「君はまだ子供なんですね」
鯨はつまらなそうに呟いた。
「どんなことをしてでも避けたい未来はまだなく、命に代えても取り戻したいものもない。迎えに来るのが早かったようです」
鯨の背がぐるんと揺れた。
「もう少し待ちましょう」
気付けば鯨は消えていた。なにが起きたのかわからないが、つつじが座っているのは屋根の上だった。震えながら這って行けば中庭が見えた。庭には多くの武者が集まっていた。父や兄、小太郎の姿も見える。
「とと様」
叫んだつもりだったが、声が出なかった。けれど、小太郎だけがつつじに気付いた。
「姫!」
彼の声に誰もが屋根を見上げる。すぐに梯子が掛けられ、父が上って来た。
「つつじ、無事か?」
父の腕に抱かれ、ほっとして涙が溢れた。
「とと様、とと様ぁ!」
わんわんと泣くつつじの背を父はやさしく撫でてくれた。待つと鯨は言った。またいつか鯨はやってくる。その日が怖くてたまらない。
最初のコメントを投稿しよう!