千年鯨はうたう

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 夜半、小太郎は直景に呼び出された。怯えて泣いてばかりのつつじをみつや侍女たちがやっとなだめて寝かしつけたころのことだった。つつじは尋常でないほど怯え、とても話ができる状態ではない。 「つつじの様子は?」 「乳母殿と侍女たちがどうにかなだめて眠らせました。薬師も眠らせた方がよいと眠り薬をくださいましたので」 「そうか」  直景は深いため息を吐く。 「なにか言ってはおらなんだか?」 「行きたくないと、何度も言っていました。鯨がまた呼びに来ると」 「また呼びに来る?」 「はい。確かにそう聞こえました」  直景は何度目になるかわからないため息を吐いて、目を伏せる。彼は小太郎を責めることもなく、すぐに兵を整えた。こんな日が来ることを予期していたかのようだった。  最愛の妻を亡くしたばかりで、娘まで奪われたくないと彼が強く思うのは当然のこと。ここ数日で急に老け込むのも無理はない。 「小太郎、そちだから話しておこう。ひなが語った鯨のことを」  小太郎はこくりと頷く。やはり彼はなにか知っているのだろう。でなければつつじが鯨の歌を聞くと知っただけであれほど厳重な守りを与えるはずがない。 「鯨は歌の聞こえるものが不幸になると呼び寄せ、望みを叶える。こういえば聞こえはよいが、あれはまともではない。ひなは幸福を願った。鯨は自ら目を潰せば幸福を与えようと答えたそうじゃ」 「え……」  小太郎は思わず声を漏らす。 「ひなは乱心などしていなかった。ただただ帝に嫁ぎたくない一心で自ら目を潰してしまった。ひなはわしに嫁ぎ、幸せになったと笑ったが、それが正しき道であったとわしは思えぬ。帝に嫁いでも幸せになる道はあったろう。鯨はその道を捻じ曲げ、わしに繋いだ。もしも、つつじが願いを言っていれば道は捻じ曲がる。果たしてそれは本当に幸福であろうか。つつじがなにを損なうことになるのか。怖ろしゅうてならぬ」  小太郎はごくりと唾を飲む。ひなは目の傷が元で健康を損なったと聞いている。年月を経て、徐々に悪化し、命を落とした。鯨の言うことを聞いていなければ、彼女はまだ生きていたかもしれない。そもそもここにいなかっただろうが、果たしてそれが不幸につながる道だったのだろうか。  女子は婚儀が近付くと不安になり、泣いてばかりいるものもいると聞く。婚儀さえ済めばけろりとするとも。そこに鯨が付けこんだ。 「また来ると鯨が言うたのであれば、つつじはなにも願わなかったのであろう。次はどうなるかわからぬ」  今回はつつじに願いがなかったのか、鯨が危険だと気付いたのかはわからない。だが、鯨はつつじの願いを叶えるまで、何度でも呼ぶということなのだろうか。だから、つつじはあれほどまでに怯えているのだ。 「つつじが不幸にならねば呼ばれることはない。守ってやってくれるか、小太郎」  一度は守れなかった小太郎に再び託すと彼は言っている。小太郎は烏帽子親の鋭い目を真っすぐに見つめる。 「必ずや、お守りいたします」 「そちのことは頼りにしておる」  下がるように告げられ、小太郎はつつじの部屋の前に戻る。 「お前のことは俺が絶対に守る」  小さく呟いて、太刀を抱く。中に入るわけにはいかないが、ここなら一番そばで守ってやれる。泣き虫で強情な妹のようにも思う姫を鯨に渡しはしない。  真っ暗な空に鯨がどんよりと浮かんでいる。  薄明りに目を覚ますとみつが手を握ってくれていた。眠りに落ちる前、あれほど乱れていた心は海のように凪いでいた。これが定めだとしても、逃れることはできる。不幸にならねば鯨は呼ばない。不幸にならねばいいのだ。  みつの手を離し、枕元に祀られた観音像に手を合わせる。もう心がくじけないように守って欲しい。 「姫様、お目覚めでございますか」  侍女の一人に声をかけられた。 「はい」 「お加減はいかがでしょう?」  几帳の陰から顔を見せた彼女は心配そうにつつじの顔を見た。 「大事ない。支度を」  ほっとしたように微笑んだ侍女はすぐに朝の支度を始める。顔を洗う水、手拭い、髪を梳く櫛、着替え。いつもと何も変わらない。  みつが目を覚まさないのはつつじを案じて明け方まで眠らずにそばにいてくれたせいだろう。体調が悪い時はいつもそうして見守ってくれるやさしい乳母を起こそうとは思えなかった。 「朝食はいかがされますか?」 「広間へ行く」  そう答えればすぐに侍女の一人が台所へと向かった。つつじはいつも広間で父や兄と食事をとっているが、部屋で取ることもある。それは大体前日に体調を崩したときのことだから問われたのだろう。  閉じこもり、しおれていてはすぐに鯨が来てしまう。もう悲しんでいることはできない。以前と同じように過ごし、心を乱さぬようにするのだ。 「小太郎は?」 「お廊下で番をしているそうにございます、姫様」 「左様か」  御簾を開けてもらうと小太郎が太刀を抱えて座っていた。見回せば寝ずの番が随分立てられたらしく、あくびをするものがそこここにいる。それなのに小太郎もここにいてくれたことが、つつじはうれしかった。眠っているらしく、頭の落ちた小太郎の肩についと触れる。 「小太郎」  はっと顔を上げた小太郎はほっとしたように微笑んだ。 「姫、具合の悪いところはないか?」 「大事ない。心配かけたの」  小太郎は頭を振った。 「姫が戻ったんだ。それだけで十分だ」  立ち上がって大きな伸びをした小太郎に手を引いてもらい広敷に向かう。 「小太郎、今後はわらわがよいというとき以外、外で手を離してはならぬ」  小太郎はつつじの手をぎゅっと握る。 「もう離さない。姫は俺が守る」 「小太郎がおれば安心じゃ」  つつじは小さく笑って小太郎の節くれだった手を握り返す。つつじが物心ついたときには小太郎の手は硬かった。つつじの兄と共に武芸の鍛錬に励み、その腕は酒匂の屋敷で一番といわれるほどだ。ただの乳兄弟ではなく、酒匂家当主直景のお気に入りとして元服し、つつじを守るために努力を惜しまずにいてくれる。そんな彼を慕わずにいられるものだろうか。 「小太郎、昨日はとと様からお叱りを受けなんだか」 「お叱りは受けてない。お前を守れなかったのは俺の油断のせいだ。もう二度と怖い思いはさせない」  いつもよりずっとやさしい声に涙が溢れそうだった。平気に思えてもやはり、昨日のことは恐ろしくて心はまだ静まらない。 「頼もしいの」  きゅっと握ると強く握り返された。 「俺は姫が笑ってくれるなら何でもする」 「なんでもか」 「なんでもだ」  真剣なまなざしにつつじは思わず頬を染める。 「ならば死ぬな」 「わかった」  力強い言葉につつじは小さく笑う。彼が側にいてくれるだけですべてが大丈夫のように思えた。
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