千年鯨はうたう

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 つつじは明らかに外出を避けるようになった。供が増え、窮屈になったせいもあるだろうが、影を落としているのは鯨だ。数日に一度姿を見せる鯨につつじは怯えていた。  心配させまいと気丈に振舞ってはいるが、影が見えると座り込んでしまう。そんなとき小太郎はすぐにつつじを抱き上げて部屋に戻し、御簾の前で座り固める。そうすることでつつじがすぐに落ち着きを取り戻すことはみつから聞いた。  部屋から出ることが減れば自然と二人が会う時間は減った。いくら乳兄弟と言えど、年頃の姫の部屋に入れるはずもない。御簾越しに言葉を交わしたり、庭の神木に咲いた花を渡したりすることはあったが、それだけだ。姿を見ることはめっきりと減った。  小太郎は鍛錬の時間を増やした。どんな時でもつつじを守れるように。つつじを奪われたら、追って行って鯨を殺せるように。小太郎は必死に己を鍛えた。  ひっそりと隠れるように暮らしているつつじは花が開くように美しくなっていく。会える時間が減ったせいか、小太郎は姫君の横顔にときめかずにはいられなかった。 「小太郎!」  みつの声に小太郎は鍛錬をやめる。 「乳母殿、お呼びか」  母と呼ぶことは禁じられて長い。 「姫様がお方様の墓参りに行かれる。仕度を」 「承知」  小太郎はすぐに指示を出す。つつじの外出は輿を使う。おぶって出かけたあのころとはもう違うのだ。つつじは十六の乙女。求婚者が絶えないと聞く。皆袖にしてしまったと直景がぼやいていた。いずれも由緒正しい高貴なものであったらしい。  つつじは噂だけ聞いてきたものには興味がないと不満そうに呟いた。己がどれほど美しく麗しいか、この花はわかっていないのだろう。告げたところでわかるものでもない。小太郎は何も言わなかった。けれど、この高貴な姫がどこにも行かずにいてくれることが無性にうれしかった。  白く細い手を引いて輿に乗せ、御簾を閉ざす。直景が作らせた特別立派な輿は見た目とは裏腹に軽く、二人でも担げるものだ。にも関わらず六人の担ぎ手を当てている。もしもの時に走って逃げられるようにするためだ。  ゆっくりと進み始めた輿のすぐ横に小太郎は馬をぴたりと着ける。小太郎の馬はつつじを守るために直景から与えられた。青毛の駿馬とは一心同体も同然だ。 「小太郎、そなたの太刀はそれほど大きいものじゃったか」  輿の中から声をかけられ、小太郎は肩をすくめる。腰に佩くでなく、背に負った太刀は優に六尺を越える長大なものだ。以前は義景からもらった太刀を佩いていたが、鯨を殺すには並の長さでは足りない。今、背に負う太刀は直景の助力を得て特別に作ってもらった。使いこなすべく、鍛錬に鍛錬を重ねているが、まだ完璧とは言い難い。 「姫を守るのに必要なだけ大きくしただけだ」  つつじは嬉しそうにころころと笑った。妹と思ったあのころと変わらぬ無邪気な姿に小太郎はふと笑う。小太郎の心は少しも変わらない。この姫が笑っていてくれさえすれば何もいらない。 「姫、また美しゅうなったな」  つつじは華やかな檜扇で顔を隠す。 「美しいのは嫌いか」 「美しいものが嫌いなものはいないだろ」 「そなたはどうかと聞いておる」  拗ねたような声に小太郎はつい、くくと笑う。 「好きだ。乳兄弟でなければ名乗りを上げた」  軽く言ってみればつつじは耳まで真っ赤に染めた。 「小太郎など嫌いじゃ。見てくれだけで選ぶというか」 「見てくれだけで選ぶにはわがままで高飛車すぎる」 「意地悪」  涙目で見上げられて小太郎は思わず目をそらす。 「そんなところも全部かわいい」 「ならよい」  プイと顔を背けられたが、その声は弾んでいる。素直でないようで素直なつつじがかわいくてたまらない。  輝くほどに美しくなったつつじがいつか誰かのものになる日に平静でいられるとは思えないが、身分が違う。乳兄弟、それだけの絆で十分だ。そう己に言い聞かせてきた。  つつじは母の墓前で手を合わせて祈る。ひなが逝って四年。月命日には欠かさずここに来る。いいことや、悪いことがあったときも。まだまだ母を思う年のころなのだろうか。小太郎にはわからなかった。生きていても己が母と思うことを禁じられたせいだろうか。  母が乳母になったことを恨んだことはない。生きるため、小太郎の出世のため、選んでくれた道だ。身分の低い父を早くに亡くし、頼る先もなかった。出世どころか生きるのもままならない。  夫を亡くし、失意のうちに生まれた娘も死産だった。みつには乳母になるほかなかったともいえる。吸うものがないのに乳が溢れると母が泣いたのを小太郎は幼心に覚えている。  初めて見た姫は絹のおくるみに包まれて、母の乳を吸っていた。赤黒い顔で生まれて死んでしまった妹とは違ってかわいらしい顔をしていた。腹が満ちればすやすやと幸せそうに眠る赤子。それがつつじだった。母は我が子の代わりのように、けれど、敬って、大切に大切につつじを育てた。  まだ幼かった小太郎が熱を出して寝込んでも、怪我をしても、彼女はそばに居てくれなかった。つつじが一番、小太郎はずっと後。小太郎はつつじが喋り始めるころには悟った。これが生きるということなのだと。  ここに置いてもらえなければ、食うにも困ることは明白。居続けるにはつつじが元気にすくすくと育たなければならない。そのためには小太郎が少々寂しい思いをしても仕方がない。そういうことなのだと腑に落ちてから隠れても母と呼ぶのをやめた。  自然一つ上の義景に引き合わされ、剣や弓の鍛錬の時間を与えられた。着物も義景のお下がりをまとうようになった。母の判断は間違っていなかった。だから、感謝こそすれ恨んではいない。  つつじはそんな苦労を知らない。知らないまま、きれいで幸福な姫でいてほしい。そう思うようになったのはいつからだろう。 「小太郎、かか様は本当に幸せだったのかの」  不意に話しかけられて意識が引き戻された。 「俺にはわからん。幼少のみぎりに一度会ったきりだしな。けど、幸せだったと言い遺されたんだろ? それじゃダメなのか?」 「ダメではないが、あれが、かか様の生き様を変えた。変えられなければわらわはここにおらぬ。それは果たして……」  小太郎はつつじの額を軽くつく。考えても答えが出るはずのないことを考えるのは時間の無駄だと小太郎は思っている。 「俺は、お前が、ここにいるから、幸せだ」  言い聞かせるように言葉を区切ってはっきり言うとつつじはふわと笑った。 「まったく、そなたは」  預かっていた市女笠をつつじの頭に乗せる。 「考えたってわからねぇことを考えると疲れちまう。俺はお前が笑っていればそれでいい」 「そういうところが嫌いでないから困るのじゃ」  拗ねたような声にくすりと笑うとつつじは手を差し出して来た。 「小太郎、帰るぞ」 「へいへい」  いつものように手を引いて輿に乗せ、帰路を辿る。なにも変わらない日々がただ過ぎていく。
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