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ツツジの花も終わり、季節は夏を迎えていた。いささか早い嵐の気配に屋敷の者たちは誰もが片付けや準備に追われている。つつじだけがいつも通り部屋で観音像に手を合わせていた。鎧戸が閉ざされているせいで薄暗い室内にロウソクの炎が揺れる。
いつものように通り過ぎる嵐だとつつじは己に言い聞かせる。だが、どうしょうもなく胸騒ぎがする。
「鯨だ」
外で誰かが呟いた。鯨はいつも空にいる。珍しいものではない。嵐の最中でもあれには何ら障りはないのだろう。気にする必要はない。そう思っていても気にかかって仕方がなかった。
あの日、急に帰されたきり、鯨と関わっていない。歌も聞かないように気を付けていた。なのに、今日は鯨の歌がはっきりと大きく聞こえる。連れ去られた日と同じだけ大きく、近く。つつじは怖くなって懸守りをしっかり握り、念仏を唱える。
今は不幸ではない。望みもない。呼ばれる理由がない。けれど、怖くて怖くてたまらない。
「こた……」
呼びかけて口をつぐむ。小太郎を部屋に呼ぶことはできない。小太郎はきっと外で立ち働いている。よく気付き、人を使うのに長けた小太郎はいつでも率先して働くから頼りにされている。本来はつつじの護衛で埋もれていいような男ではないのだ。
小太郎は直景に目をかけられ、名をもらっている。乳母の子だとしても異例の扱いで、剣の才なら義景に勝る。直景が密かに小太郎を義景の側近に据えようとしているのは知っている。
周囲から評価が高まる機会でもあるこんな日に呼んではいけない。小太郎のためを思うなら我慢しなければいけないのはわかっていた。
びょうと強風が屋敷を揺らした。
「きゃ」
怯えからうずくまるとみつがそばに来て、背を撫でてくれた。
「姫様、みつが側におりますからご安心ください。仕度が終われば小太郎も戻りますゆえ」
つつじは乳母の手を握る。
「胸騒ぎがしてならぬのじゃ。怖い……」
「それほど大きな嵐ではないそうにございます。大丈夫、大丈夫ですよ」
しわがれた手でやさしく手を撫でられても胸騒ぎが増すばかりだ。いつでも大事にしてくれる、母同然の乳母の側にいてさえ不安が消えない。みつには強風の音さえかき消すほどの鯨の歌が聞こえない。
「手を離さないでいてたも。怖ろしい予感がするのじゃ。行きとうない。怖い」
「みつがずっとこうして手を握っておりますよ。大丈夫、姫様はどこにも行かれませぬ。小太郎が戻ったら鳴弦の儀をさせましょう」
「そう、じゃな」
突風が吹き、鎧戸が倒れ、几帳がバタバタと音を立てた。つつじは悲鳴を上げ、耳を塞ぐ。鯨の歌がさらに大きくなった。
「いやじゃ、いやじゃ、わらわは行かぬ」
「行かせませぬ」
みつに覆いかぶさるように抱きしめられ、少しだけ、気が和らいだ。その時、恐ろしい音がして、なにかがミシミシと裂ける音が轟いた。俄かに庭が騒がしくなる。思わず視線を移すとどーんと地鳴りがした。
倒れたのは神木だった。青々としていた葉は雷で焼け焦げている。誰かが下敷きになっていた。
「小太郎……?」
見覚えのある群青の着物が燃えている。
「小太郎!」
つつじは思わず庭に飛び降り、燃え盛る神木に駆け寄る。
「小太郎! しっかりするのじゃ、小太郎!」
小太郎はぐったりとして動かない。神木の下敷きになっているだけでなく、雷にも打たれたのだろうか。
「いやじゃ、いやじゃ、小太郎! 返事をせい!」
ほほを叩くと小太郎はわずかに目を開けた。
「姫、危ないから、中に戻れ……」
「そなたも一緒に行くのじゃ。手を引いてくれねば歩けぬ……」
「悪いな……約束、守れそうにねぇ……」
「ダメじゃ! 約束を破るなど許さぬ!」
泣きそうな顔で笑った小太郎がごほりと血を吐いた。
「姫様、小太郎殿はもうダメです。お部屋にお戻りください」
見知らぬ家人の遠慮がちな声につつじはぎりと唇を噛む。燃え盛る神木の下から小太郎を助け出すのはほぼ不可能だ。強い風に煽られ、火は大きくなる一方。なのに、まだ雨は降らない。小太郎を助ける方法が一つだけ思い当たった。空を見上げればすぐそこに鯨が浮いている。呼びもせずに悠々とこちらを伺っているようだ。
つつじは小太郎の頬に口づけを落とす。
「わらわはそなたが生きておればよいのじゃ」
「ダメだ、姫……」
つつじが何をしようとしているのか、小太郎はわかっているのだろう。できるだけ美しく微笑んで見せて、立ち上がる。
「鯨! 見ておるのじゃろう! わらわの願いを聞けい!」
もろ手を挙げるとびょうと風が吹き、麗しい姫は忽然と姿を消していた。
「姫ぇえええ!」
必死で叫んだ小太郎の頬に触れたのは大粒の雨だけだった。
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