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しくしくと泣く声が聞こえる。聞き覚えのある声に小太郎はため息を吐く。また泣いているのか、と思い。己が死んだことを思い出した。泣かせているのは自分なのだと思い至り、胸が痛んだ。
つつじが生きていてくれさえするなら何もいらなかった。命など少しも惜しくなかった。つつじが生き返るならそれでよかった。けれど、泣かせてしまったことが辛い。
「泣かないでくれ、俺の姫」
そっと手を伸ばすとあたたかいものに触れた。何度も触れた記憶があるようなそれをいつものように撫でるとぽとりと温かい何かが頬に落ちて来た。
「小太郎?」
驚いたような、戸惑ったような声にはっと目を開ける。そこに、目を真っ赤に泣きはらしたつつじがいた。死んだとばかり思っていたが、そうではなかったらしい。
「姫……」
「小太郎!」
がばりと抱きつかれて、体中に痛みが走った。耐え切れずに呻きが漏れる。
「姫様、小太郎はあちこちの骨が折れておりますゆえ」
慌てた声はみつのものだった。つつじはすぐに離れてくれたが、手は離してくれない。
「幾日も幾日も目を覚まさぬから、死んだと思うたのじゃ。約束を破ることは許さぬ」
鯨か女神が生かしてくれたのだろうか。血に押し流された後のことはなにも覚えていない。だが、確かに生きているのだ。焼けるような痛みとつつじの小さな手がそう教えてくれる。
「泣かせてごめんな、姫。お前が無事でよかった」
「そなたも無事でなければ意味ないのじゃ。早う怪我を治せ」
「ああ、そうだな」
小太郎はつつじの小さな手を握る。
「笑顔の姫が見られないと困る」
顔を赤くしたつつじはぷいと顔をそむける。
「わらわが生かそうとしたに、死にに行ったそなたに笑顔など見せぬ」
「先に死にに行ったのは姫なんだからおあいこだろ?」
「知らぬ」
ぷうと頬をふくらませた姫が愛しくて、かわいくて、涙が溢れそうになった。誰よりも、己の命よりも愛しい姫が生きている。小太郎も満身創痍とはいえ生きている。それで十分だ。
小太郎の怪我はそれこそ全身に及んでいた。木に押し潰され、さらには炎上に巻き込まれたがゆえの怪我と火傷。鯨を殺した際に無茶をしたがゆえの怪我。血で押し流され、木にぶつかったのも悪かったのではないかと直景に教えられた。
鯨が落ちると嵐が去り、女神の伝令を受けた直景が森の中に倒れる小太郎を助けたのだという。つつじは一足先に屋敷に戻っていたそうだ。
季節が変わる頃になって、やっと起きられるようになった。小者に助けられて庭を見れば御神木はすっかり枯れ果て、寂しい姿をさらしていた。御神木は一年待ち、芽吹けば、その新芽を御神木とし、芽吹かねば掘り出して祀ることになっている。それが彼ら神にとっての弔いなのだろうか。
女神は鯨と黄泉路を行くと言った。だが、こうして祀られれば彼女はここに留まれるのではないだろうか。神は人間が作るものと彼女は言った。
けれど、彼女は逝ってしまったのだと小太郎にはわかった。火傷が癒え、包帯を外すと左の手のひらに薄紅のツツジの花に似た痣が浮かんでいた。それが彼女の加護で別れの印なのだと感じた。
鯨は丁重に葬るよう直景に願った。ただ食うものが違った。それだけだったこと。助かったのは鯨のおかげであることを告げると直景は了承してくれた。
弔いの儀式を終えると鯨の巨体はにわかに消え失せ、大きな湖が現れたという。血が流れた跡は川になった。鯨は弔われ、神に戻れたのだろうか。社を建て、鯨の像を祀ったと聞いている。身体がもう少し動くようになったら参ろうと小太郎は決めている。
傷が完全に癒え、以前同様の動きができるようになることはないと医者に告げられた。特に左腕がダメらしい。何か所も折れてしまっただけでなく、大火傷も負っていたからだ。ここにかの姫神の印が浮かんだのは、その加護のおかげでどうにかついているからなのかもしれない。
左手の指がほとんど動かないのに気付かれてつつじには泣かれたが、小太郎は納得していた。護衛には戻れないだろうが、つつじはもう鯨に怯えて泣かずに済む。それで十分だった。
「小太郎、起きていてよいのか?」
毎日毎日飽きずに訪ねてくるつつじに声をかけられ、小太郎はくと笑う。
「寝てばかりいると動けなくなる。もう痛いところはほとんど治ったんだ。少しずつ動かせと医者に言われたのをお前も聞いたろう?」
「聞いた」
「嫁入り前の姫が男の部屋に毎日来るのは問題だと思うんだが?」
「みなわらわがそなたに嫁ぐと思うておる。障りはないわ」
つつじは拗ねたように言って、ぷいと顔をそむける。小太郎は苦笑いを浮かべる。すでに噂になっているらしい。
「障りしかないだろ? 俺とお前じゃ身分が違う」
「小太郎はわらわが嫌いか?」
潤んだ目で見上げられて小太郎は焦る。
「き、嫌いじゃねぇ!」
「とと様は小太郎がよいと言えば婿にすると言うておる。小太郎ほど気遣いができ、勇猛果敢で頼りになる武士は他におらぬと」
思いもよらない言葉に小太郎は目を泳がせる。直景が目をかけてくれるのは乳母子であり、境遇ゆえのものだと思っていた。そうではなかったらしい。確かに小太郎はかの巨鯨を殺し、つつじを救い出した。褒賞の代わりに鯨の弔いを願ったとき直景に気になることを言われたが、まさかこんなことになるなど、想像もしていなかった。
「小太郎はわらわを妻にするのは嫌か?」
潤んだ目で見上げられて小太郎は思わず目をそらす。決して手に入らないと思っていた高貴な姫に手が届く。これほど幸せなことがあっていいものだろうか。
「つつじは俺でいいのか? もう剣を握れんかもしれん。お前をおぶうてやることもできんかもしれん、俺で」
つつじは小太郎のほとんど動かない左手を両手で包み込む。
「傷はわらわを守るために負うてくれたもの。これからは小太郎に助けられるだけでなく、助けたい。わらわは小太郎がよいのじゃ」
小太郎は唇を噛み、叫び出しそうな心をどうにか鎮める。
「つつじ姫、俺はずっとお前に恋をしていた。叶わぬものと隠していたが、俺の、三枝小太郎直実の妻になってくれるか?」
つつじはぽろぽろと涙を流しながらほほ笑んだ。その笑顔はこれまで見たどの笑顔よりも美しく、愛しく思えた。
「つつじは小太郎の妻になります」
思わず抱きしめて重ねた唇はやわらかく、あたたかい。たまらなく幸せで涙が溢れ出した。つつじの細い指が小太郎の涙をなぞる。
「なぜ泣く」
「お前も泣いてる」
つつじは恥ずかしそうに顔を隠す。
「わらわも小太郎が好きじゃ」
つつじは逃げるように去って行った。小太郎は思わず小さく笑う。あの小さかった姫はいつの間にこんなに大きくなったのだろう。
入れ替わりのように直景が姿を見せた。
「首尾よういったようじゃな」
そう言われて、小太郎は思わず顔を赤くする。
「お、御館様、つつじ姫様の話は本当のことですか?」
「わしはこのようなことがなくともそちを婿にするのはやぶさかでないと思っていた。つつじの思い、そちの思い。この直景に見えんと思うてか」
「申し開きもできません。ですが、私は以前のような槍働きはできません」
「そちは能がある。義理の弟として義景を支えてやって欲しい。それともなにか、このわしが義父では不満か?」
「滅相もございません」
直景はふと息を吐いて小太郎の左手を取る。
「小太郎、わしはそちを買っておる。どのような境遇であれ腐らず、鍛錬に励み、己を律し続けることは誰にもできることではない。義景にとってもそちの存在は大きかった。そちがいたから我が子らは立派に育ってくれた。感謝している。そんなそちを我が義理の息子とすることに何ら異存のあるはずもない。つつじを頼む」
「もったいなきお言葉。必ずや姫と幸せになります」
直景は満足そうに頷いて去って行った。
翌年、春のよき日、盛大な祝言が執り行われた。小太郎は酒匂の婿に入り、名を酒匂小太郎直実と改めた。初々しい夫婦は末永く幸せに暮らしたという。
今は昔、遠い昔の物語。
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