千年鯨はうたう

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 青空がぬうんと暗くなったのに気付いて酒匂(さかわ)つつじは空を見上げる。そこにはやはり千年鯨がいた。白い腹に黒い背の大きな大きな鯨はこれまた大きな胸鰭と尾鰭をゆうっくり揺らしながら空を泳いでいる。  クジラは海に住むもので空を飛ぶものではない。けれど、千年鯨に限ってはずっとそうして空を飛んでいる。長生きの婆様もその婆様の婆様が生きていたころから鯨は空にいたという。その昔の昔、神とあがめられたが今は忌み嫌われている。理由は誰も知らない。  空を揺らすような鯨の歌が高く低く響く。幼いころは誰も聞こえていると思っていたが、そうではないと気付いたのは乳母のみつが泡を食って父に報告してからだ。その日以来父はつつじに護衛を幾人もつけた。  千年鯨の歌が聞こえるというのは不吉なことであるらしい。幼い日からその歌声を聞いているつつじにとっては子守歌や風のそよぎ、小鳥のさえずりのようなもの。特別なにと感じることはなかった。  ただ、母のことや、父の心配を思えば聞こえぬふりをするのが正しいと十を過ぎる前からわかっている。それでも聞こえてくる歌を無視するのは難しい。  空に伸ばそうとした手を武骨な手が握った。 「なんじゃ、小太郎」  顔も見ずに声をかければ、いつものため息が聞こえた。 「姫が鯨に連れて行かれると困るんでね」  四つ年上の三枝小太郎直実(なおざね)は乳母の子だ。一緒に育ったから幼馴染や兄のようなものだが、身分が違う。先ごろつつじの父を烏帽子親として元服した。以来、つつじの護衛の筆頭を務めている。 「鯨は飛んでいるだけじゃ、降りて来ぬ」 「気まぐれに降りてくるかもしれないだろ。姫がいなくなったら俺は扶持がなくなる」  ぶっきらぼうな言葉につつじはころころと笑う。つつじは姫と呼ばれる通り、都に近い有力豪族の娘だ。小太郎は母が乳母でなければつつじと言葉を交わすこともできない下級武士の生まれ。父を早くに亡くし、出世の道がほぼ絶たれたも同然の小太郎にとってつつじ、ひいては酒匂家との縁は決して手放せないものだった。 「そうじゃのぅ。ゆえに取りたくもないわらわの機嫌を取っておるのじゃものなぁ」 「うるせぇ」 「小太郎は近頃、口が悪うなった。もそっと優しゅう話せ」  彼はまたため息を吐いて居住まいを正し、口を開く。 「御館様がお呼びでございますゆえ、小太郎と参りましょう」 「できるではないか」 「常にこうしてお話すると寂しいと仰せになるは姫でございましょう」  つつじは顔をぷいと背ける。幼い日から馴染んできた小太郎に他人行儀にされるのをたまらなく寂しく思ったのは否定できない。認めるのも癪だった。 「知らぬ。とと様がお呼びと言うたな。参ろう」 「はいはい」  ぞんざいな返事をした小太郎に手を引いてもらい、ゆるゆると歩く。つつじは屋敷の中でも一人では歩かない。幼い日から乳母や小太郎に手を引かれて歩く。一人でどこかに行くと考えたこともなかった。外に行くときは誰かが負ぶってくれる。今はもっぱら小太郎の役目だ。 「そなたにはあれの歌が聞こえぬのか」 「聞こえねぇって前も言ったろ?」 「そうじゃったな」  不吉と言われる鯨の歌が聞こえないのはよいことなのだろう。 「俺以外にはもう話すなよ」 「わかっておる」  つつじの母は鯨の歌を聞く。本来は帝に嫁げるほど高貴な姫であるのに、有力とはいえ豪族でしかない酒匂家に嫁いだ。鯨の歌に引き込まれ乱心したせいだという。彼女は乱心し、自ら目を潰してしまった。父に細やかに愛され、穏やかに暮らしているが、病がちな彼女はどこか違うところにいる。  いつか自分も母のように狂うかもしれない。密かに恐れを抱いているが、鯨の歌に耳を傾け、見上げるのをやめられない。もうすでに魅入られているのだろうか。 「小太郎、わらわが乱心したらいかがする」 「正気に戻るまで手を尽くす。お方様だって御館様のお心遣いで本来のやさしい女性に戻ったというじゃないか」  嫁いで来たとき、舌を噛み切らぬように猿ぐつわを噛まされていたという母。父は哀れみからか、責任感からか、そんな彼女を愛した。母は次第に本来の穏やかで高貴な姫に立ち返り、二人の子を産んだ。末の子がつつじだ。  つつじが鯨の歌を聞くと知って一番嘆いたのは父だった。母によく似た愛らしいやさしい姫であるのにと。彼は事あるごとにつつじにお守りをもらってくる。おそらく今日もそれだろう。屋敷の中でも外してはならないと言いつけられた懸守りの包みはとっくにいっぱいだ。重くて首が痛むこともある。心配してくれるのはありがたいのだが。 「そもそもお前は乱心しない。心配するな」 「やさしいことを言う。乱心すればまともな相手と縁付けまい。そなたにお鉢が押し付けられることもあろうに」  乳母子ではなく、婿となれば出世が望みやすくなる。決して悪い話ではない。 「俺は姫に変わってほしくない。誰かのものになったってわがままで意地っ張りのお前でいてほしい。だから、お前は乱心しない」 つつじは思わずころころと笑う。思ったよりもずっと彼に思われているらしい。 「そうあろう」  父、酒匂直景(ただかげ)の部屋の前で二人は立ち止まる。小太郎は彼女の手を離し、跪く。 「御館様、つつじ姫をお連れいたしました」 「待っていたぞ」  重々しい声につつじは装束の裾を整えて歩を進める。厳めしい顔にぼさぼさと太い眉、もみあげもぼうぼうとした武張った男がつつじの父直景だ。誰もがつつじと実の親子ではなかろうと疑う。兄はこの父にそっくり似たのだが、つつじは少しも似なかった。たおやかで支えがなければぽきりと折れてしまいそうな母に似た。だからなおさら心配されるのだろう。 「とと様、なんぞご用でございますか」 「これをそちに授けようと思うてな」  彼が差し出したのはやはりお札だった。つつじはふうとため息を吐く。 「とと様、これ以上お札やらお守りやら、観音様やら頂いておりますと神様同士ぎすぎすとされるのはございませんか」  直景は困ったように目を泳がせた。 「そういうこともあるかもしれんな。近く大僧都に聞いてみよう」 「つつじは菩提寺のお守りだけで十分と思います」 「父はそちが心配なのだ」  つつじは懸守りの包みを父に差し出す。他の者の懸守りより二回りも大きいそれはずしりと重い。 「とと様、つつじのお守りはもうこんなに有りまする。つつじは安泰。心配いりませぬ」 「しかし」  渋い顔をした父に兄の義景(よしかげ)がくくと笑う。 「父上、つつじは華奢で力もない。十二になったばかりでまだまだ小柄。こんなにお守りを持たせては重いのでしょう。いっそ特別な物を作らせ、持たせてはいかがですか? 家におっても父上の言いつけ通り懸守りを着けているのですから、それくらい考えてやっても良いのでは?」  義景の言葉につつじはこくこくと頷く。この兄はいつもつつじの気持ちをわかってくれる。一つにしてくれればぐんと軽くなるだろう。なにしろ懸守りにはすでに三つも仏像が入っているのだから。 「義景の言う通りだ。つつじ、高名な仏師に守り仏を彫らせ、都の大僧正に魂を入れてもらおう。それ一つなればよいか?」  つつじは頷いてにっこりと笑って見せる。 「とと様、うれしゅうございます」  直景は満足そうに頷いた。 「今も鯨の歌が聞こえるのか?」 「聞こえませぬ」  人と話しているときは聞こえないのだから嘘は言っていない。聞こえると答えればどれほど悲しませるかわからない。長年母に寄り添う彼はなにか知っているのだろうか。 「とと様、かか様のお加減はいかがでしょう?」 「今日はずいぶんと加減がよいようであった。見舞えば喜ぶであろう」  今日は母に会えると知ってつつじは顔がほころぶのを止められなかった。ひなはここ数年床に付いていて、会えない日の方が多い。その分、乳母に甘えはしたが、母には代えられない。 「かか様のところに参ります」  頷いた直景が頭を撫でてくれた。彼の大きなやさしい手がつつじは嫌いではない。  小太郎に手を引いてもらい、母の部屋に向かう。年々弱っていく彼女が長くないことは薄々感じていた。けれど、口に出すことはしない。口に出したらそのまま消えてしまいそうで怖かった。  直景が細やかに気を配り、高名な医師を次々手配しても、金に糸目を付けずに薬を購っても彼女が回復する様子はない。ときおり調子がよく、話ができる日があるだけだ。それも長い時間ではない。  自らの手で目を潰したことが彼女を苦しめているのだと漏れ聞いたことがある。目から頭に毒が回り、痛みやめまいを起こすのだという。それが鯨の歌を聞いた結果だと父は思っているから、つつじを守るために必死なのだろう。 「かか様、つつじです」  襖を細く開けて声をかけると光の筋のなかで母の細い手が揺れた。つつじは急いで中に入り、襖を閉める。わずかな光も母の目に障る。わずかに漏れる光を頼りにそばに行く。 「つつじ、よう来てくれましたね」  枝のように細く白い手をそっと握る。 「今日はお加減がよいととと様にお聞きしました」 「ええ、今日は気分がよい。そなたにも心配をかけますね」  つつじは母の手をぎゅっと握る。 「なにもできないのです。心配くらいさせてください」 「いい子。生きていてくれる。それだけで十分です。かか様は幸せ」  母はいつもよりしっかりと手を握り返してくれた。『幸せ』と彼女はいつも言うが、寝ついてばかりの彼女に抱いてもらった記憶もない。本当に彼女は幸せなのだろうか。問うてはいけないことはわかっている。 「かか様、とと様がまたお札をくださったのです。毎日一つずつおすがりしてもふた月で終わらぬほど下されたというのに」  母はころころと笑った。 「かか様には見えませんが、わらわにもたんと下される。とと様のお心づくしです。わかって差し上げなさい」 「わかっております」  母の冷たい手が頬に触れた。彼女が触れてくれるのは珍しく、つつじはうれしくなって手を重ねる。 「つつじ、鯨に呼ばれても行ってはなりませんよ」 「鯨は呼ぶのですか?」  母は小さく頷いた。つつじは言葉を待ったが、それ以上何も言ってくれず、疲れた様子を見せた。つつじはもう一度母の手を握って退席する。会える時間はいつも短い。それでも生きていてくれるだけでいいとつつじは思っていた。 「小太郎」  手を差し出せば小太郎は何も言わずに手を引いてくれた。大きくて、武骨であたたかい手は母と少しも似ていない。彼女の手の冷たさを思うと泣きたくなる。  母に会った後、つつじが悲しく寂しくなることを彼は知っている。母がいとわしいわけではない。ただ日に日に弱って行く姿を見るのが辛い。今はもうどうにか日々を繋いでいるだけだ。 「みつは」 「姫の部屋におる。白湯をもらうといい」 「そうじゃな」  鯨の歌がいつもより大きく聞こえた。
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