二人、傘の中

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 どうか雨よ降らないでくれ。どんよりと曇る空を眺めながら、俺はそんなことを考えていた。梅雨時期はどうしたって雨の日が多くなる。そうなれば今日の部活も室内でのトレーニングになるのだろうが、いい加減それにも飽き飽きしてきているのだ。コーチは「自分に足りていない部分を鍛えるいい機会だ」なんて言っていたけれど――そしてそれは間違ってもいないのだろうけれど、大半の部員は外に出てボールを蹴りたいと思っているだろう。基礎トレが大切なのは重々承知しているが、それでも一日ボールに触れないだけでそわそわしてしまう。悲しきサッカー少年の性である。 「『尊大な羞恥心』と『臆病な自尊心』。これについては前回の授業でやったな。覚えてるか?」  国語教員の松村がトントンと黒板を叩く。その音に窓の外に向いていた意識が戻ってくるが、「ここはテストに出るからなー。ちゃんと復習しとけよ」と言われても、板書一つ取っていないノートではどうにもできそうになかった。  テストの点数に興味はないが、赤点になれば部活動に参加できなくなってしまう。誰か板書をしていそうな知り合いはいないものか、と室内を見回すと、隣の席の奏と目が合った。 「どうかした?」  小声でそう尋ねながら、奏はこてんと首を傾げる。 「テスト、やばいかも」  簡潔にそう返すと、彼女はくふふっと笑い声を上げた。 「あきとくん、毎時間外ばっかり見てるもんね」 「……まあ」  奏の声は、じめじめとした教室の中でもふんわりと優しく響く。秋人という俺の名前も、奏が呼ぶと不思議と柔らかく聞こえた。 「雨降らないかどうか気にしてるんでしょ?」 「……雨降ったらサッカーできねえし。っていうか、雨が好きな奴なんていねえだろ」 「そう?私は結構好きだけどな」  雨の何がいいのだろう。サッカーのことを抜きにしてもあまり気持ちの良い天気ではないだろうに、奏は跳ねるように声を弾ませた。 「雨が降ると傘を差すでしょ?傘の中って、声が一番きれいに聞こえるんだって」  その言葉に、幼い頃奏が「私、大きくなったら声優になりたいんだ」と言っていたことを思い出す。奏は今もその夢を追いかけているのだろうか。それは分からないけれど、もしそうなのだとしたら奏にとっての傘の中は俺にとってのグラウンドなのかもしれない。ふとそう思った。 「うわっ、スポドリなくなった」  ひと通り筋トレを終え、今のうちにとボトルを手にすると中身はすっかり空だった。思わずぼやくと、隣で汗を拭いていた智樹が「買ってこいよ」と声を上げる。 「雨やみそうもねえし、どうせコーチもしばらく来ねえだろ。今のうちに買いに行っとけ」 「いや、でも……」  無断で部活を抜けるなど、本来あってはならないことだ。万一コーチに見つかったら――。そう考えていると、智樹は「いいから行けって」と俺を急かした。 「もしコーチが来たら上手いこと言っといてやるから。熱中症にでもなったら洒落になんねえぞ」  梅雨のこの時期はうんざりするほど蒸し暑い。智樹の言うとおり、うっかりしていると熱中症になってしまいそうな暑さだ。そう思うと、確かに今飲み物を買いに行く方が賢明なのかもしれない。そう考え、俺はボトルを鞄の中に戻して立ち上がる。 「じゃあちょっとひとっ走りしてくる」 「おー。滑って転ぶなよ」 「転ぶわけないだろ。この大事な時期に」  来週には試合が控えているのだ。足を怪我するようなことができるわけがない。間違っても足を滑らせることのないように足裏に力を入れて、俺は薄暗い廊下を駆け出した。  速く走ろうと思っても、長財布をポケットに突っ込んだままでは上手く走れない。そう気づいたのは、一階にある購買に向かって階段を下りているときだった。というのも、俺が足を動かす度に長財布の一部がぴょこぴょことポケットから顔を覗かせるのである。これ以上足をはやめたら財布が滑り落ちてしまうことは明白だった。だから、俺は財布に意識を傾けながら階段を下った。――けれど、思えばそれがいけなかったのだろう。財布に意識を向けすぎるあまり、気づいたら俺は階段から足を踏み外していて――。  足に、腰に、それから頭に強い衝撃を感じたのを最後に、ぷつんと視界が真っ暗になった。  目を覚ますよりも先に、ツンと鼻につくような消毒液の匂いを感じた。薄っすらと目を開けると、視界いっぱいに白い天井が広がる。  頭が酷くぼんやりしていた。思考を巡らそうとすると、それを拒むように後頭部がずきりと痛んだ。 「っ……!」  思わず小さなうめき声を上げる。すると、それに反応したように「清水さん?」と俺の名が呼ばれた。 「清水秋人さん?」 「……はい」  気づくと、俺の横たわるベッドのすぐ横に白いナース服の女性が立っていた。優し気な顔立ちのその人は、「体調は大丈夫ですか?頭痛は?」と俺に問いかける。 「頭痛……?」 「階段から落ちたときに頭を強く打ち付けたんですよ」  その言葉に、購買に向かって階段を駆け下りていたときの記憶がよみがえる。 「あ……」  思い出すと、またもや後頭部がずきんと痛んだ。歪んだ俺の表情を見て何かを察したのか、女性は「先生を呼んできますね」と言って離れていく。  あれだけ智樹に大口を叩いたのに、結局足を滑らせてしまった。後頭部に走るこの痛みを抱えたまま、俺は来週の試合に出られるのだろうか。消毒液の匂いが染みついたベッドに横たわりながら、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。 「日常生活を送るぶんには問題ありません。ただ、サッカーとなると……」  俺と、母と、それから白髪交じりの医師と。三人きりの診察室で、医師は静かにそう告げた。 「……来週、試合があるんです」  ぼそりと呟くと、医師は「ええ」と頷く。 「ですから、まずはリハビリですね。治るスピードには個人差がありますから」 「治ったら来週の試合に出れますか?」 「それは……」 「完治したら部活に戻れますか?」  俺はいま、医師を困らせるような質問をしている。頭の冷静な部分はそう分かっているのに、それでも言葉を止めることはできなかった。 「日常生活を送れたって意味ないんです。……それじゃあ、全然意味がない……!」  教室から眺めた曇り空のグラウンドを思い出す。グラウンドを眺めながら、どうか雨よ降らないでくれ、と願ったことを。俺にとってのサッカーとはそういうものだった。そばにいないと物足りなく感じてしまうような、毎日一緒にいても飽きないような、そんな存在だったのだ。ただ日常生活を送れたって意味がない。そこにサッカーがなければ、きっと俺の人生は彩られない。だから、俺は願いを込めて医師を見つめる。 「……部活には、戻れるようになるんですよね?」  ――その問いかけに、答えはなかった。 「あきとくん、こっちきて」  ブルーハワイのように真っ青な傘を差した奏が、そう言って手招きする。松葉杖はまだ手放せなかった。松葉杖を手放さないということは、雨が降っていても傘を差せないということだ。そんな俺を奏が気遣ってくれていることは明白で、その事実が俺をより一層惨めにさせた。 「別にいい。どうせ帰りは車だし」 「でも正門まで歩かなきゃでしょ?歩いてる間に濡れちゃうよ」 「いいって言ってんだろ」  舌打ちとともに強い拒絶の言葉を吐き出す。しかし、それでも奏は引き下がらなかった。 「じゃあ私のために傘に入ってよ」 「は?」 「前に言ったでしょ。傘の中は声が一番きれいに聞こえるの」  だからなんだというのだろう。声がきれいに聞こえるだとか聞こえないだとか、そんなこと俺には関係のないことだ。それでも、奏にとって''傘の中''が大切な場所なのだとしたら――。そう思うと無碍にもできなくて、俺は渋々奏のそばに歩み寄った。  男子のなかでも大きい方である俺と、女子のなかでも小さい方である奏が並ぶと傘の中は途端にアンバランスになる。本来なら俺が傘を持つべきなのだろうが、松葉杖をついている今はそれもできない。諦めのため息を吐きながら奏に身を近づけると、彼女はくふふと笑い声を溢した。 「あきとくん、懐かない猫みたい」 「どういう意味だよ」 「そのままの意味だよ?警戒心の強い猫ちゃんみたいで可愛いなって」 「意味分かんねえ」  そう吐き捨てると、奏は「分からなくていいもん」と頬を膨らませる。 「あきとくんに分からなくても、私に分かってたらいいの」  中身のない会話だな、と思った。奏には昔からこういうところがあるのだ。会話の内容も声も雰囲気も、全てがふわふわとしていて掴みきれないところが。 「昔、雨に濡れて泣きながら帰ってる私をあきとくんが傘に入れてくれたの、覚えてる?」  脈絡のないその問いかけに、ふるふると首を横に振る。確かに奏は昔から掴みどころがなくて、ふわふわしていて、それから泣き虫だった。でも、俺が覚えていることはそれくらいだ。けれど、奏はそうではないらしい。彼女は懐かしむように遠くを見つめると、「あきとくんが言ったんだよ」と呟いた。 「奏の声はきれいだって、傘の中で聞くともっともっときれいだって。だから泣き声を上げてたらもったいないって、あきとくんが私に教えてくれたの」  雨粒が傘に当たってぽつぽつと音を立てる。そんな雨の中を、奏はゆっくりとした歩調で歩き続けた。 「だから私は雨が好きだし、傘の中で響く声も好き。いつかは声の仕事がしてみたいって思うようになったきっかけも、全部あきとくんなの」 「……覚えてねえ」  思わずそう呟くと、奏は「そうだろうね」と笑う。 「あきとくんはきっとなにも覚えてないだろうなって思ってた。でも、私にとってあきとくんは恩人だから。今度は私があきとくんの助けになりたいって、そう思っちゃうんだよ」 「俺がいらねえって言っても?」 「うん。だって、本当はいらなくなんてないでしょ?ずっと一緒にいたから、そういうのなんとなく分かるよ」 「都合の良いときばっかり幼馴染面しやがって」  そんな俺の言葉にも、奏は「そうかもね」と微笑む。やっぱりコイツはよく分からない奴だ、と思った。けれど、そんな幼馴染のおかげで少しだけ――本当に少しだけ心が軽くなったのもまた事実で。俺は、おそらく人生ではじめて雨よ降れ、と願った。もっともっと雨が降って、周囲の煩わしいノイズを搔き消して、どうか奏の声だけを聴かせてくれ、と。今はまだ、そうすることでしか壊れかけた自分の心を守れそうになかった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!