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倫之介の追憶・4
部屋に引きこもっている松尾の奥様にお会いしたのは、書生をしていた数年間で数える程度しかなく、言葉を交わしたのは1度きりだった。
夜遅くまで勉強をしていて便所へ行ったときに、台所から食糧を両手いっぱいに抱えて出てくる奥様と鉢合わせをしたのだ。
月明かりでしか見えなかったが、寝間着であろう白い浴衣姿の奥様は、髪がぼさついてはいたものの、上品な顔立ちの綺麗な方だったように記憶をしている。
奥様は僕を見るなり驚いた顔で「どなた?」とのんびりとした口調で聞いた。書生としてお世話になっている旨を伝えて一礼すると、笑顔を見せ、「がんばってね」と優しい声を出し、手に持っていた苺を1つくれた。
松尾邸の人々は使用人も含め、皆いい人たちばかりで、僕は快適な書生生活を送っていた。中でも一番関わることが多かったのは瑞代さんだった。
「ねぇ、倫之介さんのいい人ってなんて名前でどんな人なの?」
瑞代さんはやたらチヨちゃんについて聞き出そうとしてきた。しかし松尾家にとって妾であるかやさんや、その娘であるチヨちゃんの話はしてはいけない気がしていて、現に眞吉さんはかやさんの紹介で書生になったということは言うなと僕に口止めをしていた。
「瑞代さんの知らない人ですよ。とても明るくてかわいらしい人です」
「まぁ!倫之介さんは明るくてかわいらしい方がお好みなのね!で、なんて名前でどんな人なの?」
「いや……えっと……」
瑞代さんは少々会話が通じないところがあった。同じような会話が何度も繰り返されるときは疲れたが、基本的にはいい人で、毎日のように絵を描いたり眞吉さんに頼まれた書き物をしたり勉強で夜更かしをしていると、瑞代さんからの差し入れだと女中さんが夜食を持ってきてくれたりして、常に僕を気遣ってくれた。
ある日瑞代さんは僕の部屋に油絵や水彩絵の具を一式持って来た。
「倫之介さん絵を描くっておっしゃっていたでしょ?なのに画材をあまり持ってらっしゃらないみたいだから。よかったら使ってね!」
水彩絵の具は持っていたが、小学校の学校の授業で使っていたものを大事に使っている状態で、基本的に鉛筆画で我慢していた。瑞代さんがくれた油絵の具も水彩絵の具もずっと欲しかったけど高価で買うことが出来なかったものだった。
「いいんですか!?ありがとうございます……!」
この日から水彩画や油絵も書くようになったが、やはり僕が描く絵はチヨちゃんばかりだった。
僕の頭の中には常にチヨちゃんがいて、チヨちゃんの絵を描いているときは、チヨちゃんと一緒にいるときの次に幸せだった。描いた絵は誰にも見られないように細心の注意を払った。何故ならチヨちゃんは眞吉さんの妾の子であり、顔を知っている者がいる可能性もあったからだ。
瑞代さんとは、食事のときなど、1日に2度は会話を交わす時間があり、その度にいつも言っていた。
「倫之介さんの婚約者の方はきっと素敵な方なのでしょうね!倫之介さんと婚約者の方のお話をたくさん聞きたいわ!それはきっと葉っぱの純愛ブルースと同じくらい素敵な物語なはずだもの!」
僕は困りながらも、婚約者が『眞吉さんの妾の子』だと分からない程度の話を、少しずつ聞かせるようになっていった。僕の話が始まると瑞代さんは決まって目を閉じて聞いた。何故目を閉じるのかと問いかけたら読者は主人公と一体になるからだと答えた。
このときは相変わらず変わったお人だと思う程度で気にせずにいたが、その意味を理解したのはずっと後になってのことになる。
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