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チヨの苦悶・5
うたが家に来てから、あたしは倫之介のことを考えると瑞代ちゃんの悲しむ姿が思い浮かぶようになって苦しくなった。
苦しくて苦しくて夜も眠れなくて寝不足になって朝食の味噌汁をつくるのに大根を切っていたら包丁で指を切ってしまった。
「いてっ」
思わず声をあげて人差し指の先を口に入れるあたしに、卵焼きを焼いているお母ちゃんが心配そうに言った。
「倫之介さんのことで眠れなかった?」
あたしはドキンとした。
「なんで分かったんだ!?」
お母ちゃんはほっぺを緩めて優しい顔になった。
「チヨのことは何でも分かるのよ」
そう言ってあたしの左手を握って怪我した指を水道の水で洗うと、食器棚の引き出しから洗ってある布巾を持って来てあたしの指に巻いた。
「1度倫之介さんとお食事にでも行ってきなさい」
瑞代ちゃんの笑顔が頭を過ぎった。
「でも……」
「いいから」
お母ちゃんはなだめるようにあたしの背中をポンポンと叩くとあたしの代わりに大根を切り始めた。
清四朗を学校へ見送ってからいつものように裏庭で洗濯をしていると、あたしの横で土をつついていたニワさんが「コッコ」と前庭のほうへ振り向いて固まった。
「ニワさん、どうかしたのか?」
ニワさんは、しゃがんでいるあたしと目を合わせると「コッコ」と、『客が来た』と、教えてくれた。そのすぐ後に玄関の方から声がした。
「ごめんください!」
あたしは固まった。倫之介の声だ。
「はい」と返事をするお母ちゃんの声がしてドアを開ける蝶つがいの音がしてお母ちゃんと倫之介が何やら喋っているのが分かった。
あたしは泡々の洗濯桶の中で清四朗のホワイトシャツを握ったまま固まっていた。
少しすると台所の方からお母ちゃんの足音が聞こえて、あたしは何だか身構えていて、勝手口が開くとあたしの身体はビクッと揺れた。
「チヨ、倫之介さんがみえたわよ」
「あ……おお……そうか……だが今洗濯が忙しくて手が離せないからまた今度にしてくれと伝えてくれないか」
「洗濯はわたしがやっておくから」
「お母ちゃんはしゃがむことが出来ないではないか。あたしが最後まで洗濯をせねばならないのでまた今度にしてくれと伝えてほしい」
お母ちゃんはいきなりあたしの腕を掴むと引っ張り上げようとした。あたしはお母ちゃん足が心配になって思わず立ち上がった。
「あん摩師のおかげで杖がいらなくなったけど無理しちゃ駄目だ」
「倫之介さんが玄関で待っているわ。今日の家事は全てわたしがやるから食事にでも行ってらっしゃい」
「……お母ちゃんが倫之介を呼んだのか?」
「今の松尾商会に電話が繋がるのかも分からないし、そもそも番号も知らないのに昨日の今日でどうやって呼ぶのよ?」
眉がしらを上げてそう言った後に優しい笑顔になってあたしの頭と頬を撫でて続けた。
「倫之介さんが自分の意思でチヨに会いに来たのよ。倫之介さんが好きなのはチヨだから。分かっているんでしょ?」
あたしは倫之介の気持ちを考えると心が痛くなって小さく頷いていた。
お勝手口から入って玄関へ向かうと背広姿の倫之介が立っていて、廊下を歩いているあたしをジッと見つめていた。
「チヨちゃん!瑞代さんとは一緒に暮らしているけど部屋も別だし本当に何も無いんだ!!うたさんに邪魔されて瑞代さんにまだ話すことが出来てないけど、チヨちゃんも一緒に住めるように頼むつもりだから……!!」
倫之介の口から瑞代ちゃんの名前を聞くと何だか苦しくなる。あたしは何も答えることが出来ずにいた。
すると背後からお母ちゃんがこっちへ歩きながら倫之介に言った。
「チヨを食事にでも連れて行ってやってください。帰りは夜でも構いませんから」
あたしはお母ちゃんに振り向いた。
「お母ちゃん……!あたしは女中だからのんびり食事に行っている場合ではない!!」
「家事はわたしがやると言っているでしょ?」
「でも……!」
あたしの頭の中には瑞代ちゃんが居て倫之介と居ると苦しくなるから今は一緒に居たくなかった。けれども倫之介がお母ちゃんに微笑みながら「チヨちゃんをお借りします」と答えてあたしに視線を向けた。その目はとても真剣で潤んでいてあたしの心はキュッと痛くなった。
倫之介は寂しそうな顔であたしに言った。
「お願いだからちゃんと話を聞いて欲しい。一緒に食事をしてくれませんか?」
あたしに倫之介を断ることは出来なかった。
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