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倫之介の追憶・2
チヨちゃんの母親であるかやさんと初めて言葉を交わしたのは大正3年で僕がまだ9歳のときだった。
綺麗な花を見つけたからチヨちゃんにプレゼントをしたくて学校の帰り道で待ち伏せをした日、チヨちゃんが家に招いてくれたのだ。
チヨちゃんの家は繁華街に建てられていて、1階はかやさんが経営する喫茶店になっていた。
カラフルなステンドグラスが使われた木ドアを開けると、香ばしい匂いと煙の臭いが出迎えた。それは人生で最初に嗅いだコーヒーの匂いと、普段からよく嗅ぐ煙草の臭いだった。
蓄音機からは洋楽が流れていて、朱色の壁の店内にはカラフルでハイカラな椅子とテーブルが並んでいた。
「お母ちゃん、りんのすけ連れてきた」
チヨちゃんはそう言いながらカウンターの空いている席にランドセルを置いてその隣のカウンター椅子によじ登って腰掛けると、気後れして突っ立っている僕に振り向き「りんのすけも早くここ座って」とランドセルが置いていないほうの隣の椅子をポンポンと叩いた。
僕は教材が包んである風呂敷を腕に掛けて椅子によじ登って腰掛けた。僕の隣には知らないおじさんが座っている。萎縮して風呂敷を両手で抱きかかえて小さくなっているとチヨちゃんが「風呂敷こっちに置いてあげる」と僕から風呂敷を取り上げてチヨちゃんのランドセルと一緒に置いた。
「何飲む?」
入学式で見た綺麗な女の人――チヨちゃんの母親であるかやさんが、カウンターの中から僕にメニュー表を差し出したので僕は驚いて答えた。
「お……お金持ってないです……」
かやさんは一瞬ポカンとすると「ふふふ」と笑ってから言った。
「子どもからお金は取りません。いいから決めて」
そのとき僕の隣に座っているおじさんがニヤニヤとしながら僕に話しかけて来た。
「坊主、チヨちゃんのいい人なのか?」
僕の心臓は大きく波打ち、身体中が熱くなった。何も答えることが出来ないでいる僕の隣でチヨちゃんが「そうだよ!」と答えたので僕の身体は更に熱くなった。
おじさんは「こりゃチヨちゃんもかあちゃんに似て悪女だな!」と笑いながら言うと煙草を吸って煙を鼻と口から吐き、かやさんに話しかけた。
「松尾商会の旦那には認知してもらったか?法律さえ変わらなければ妾も戸籍に入れたのにな」
かやさんは少し間を空けてから答えた。
「こうやって店を持たせてもらって生活費も援助してもらってますから。奥さんもわたしのせいで身体を壊してしまっているみたいだし。これ以上は望めませんよ」
「こりゃ健気だね」
ガヤガヤと騒がしい客人たちのしゃべり声の中、英語の歌声のレコードが流れていく。重苦しい大人達の会話を聞きながら僕は生まれて初めて飲むミルクコーヒーに舌鼓を打っていた。本当はコーヒーを頼んだのだけど、かやさんが子どもには苦いからとコーヒーにミルクホールを入れてくれたのだ。チヨちゃんはカルピスを一気に飲み干すと2敗目には僕と同じミルクコーヒーを頼んでいた。
かやさんが微笑みながら僕に話しかけた。
「チヨのために勉強がんばってくれてるんですって?」
僕は緊張しながら答えた。
「はい。大学を卒業して画家になってお金持ちになったらチヨちゃんと結婚したくて……」
かやさんは微笑んだまま少し間を空けてから続けて言った。
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