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チヨの苦悶・8
あたしに新しい友達が出来た。純平と洋太と菊助だ。友達が増えると世界が広がる。倫之介のことでの悩みと苦しみは心の奥底から無くなることはないけれど、うれしくて楽しくてなんだか温かい気持ちでみんなと別れて清四朗と家に帰った。
いつの間にか空はオレンジ色になっていた。
倫之介はあれからどうしただろうか?
まだ喫茶店にいるだろうか?
ガヤガヤと賑やかな喫茶店に1人で座る倫之介を想像して胸がチクンと痛くなった。今からでも戻って謝ったほうがいいのだろうか?けれどもあたしと倫之介が仲良くしたら瑞代ちゃんが哀しくて死んでしまう。それは嫌だった。
そのとき右腕を引っ張られたと同時に自転車がリリリンとベルを鳴らしながらあたしの身体をかすって通りすぎていった。
清四朗があたしの右腕を握ったまま言った。
「危ないな、あの自転車。大丈夫か?」
あたしは目をパチクリとさせた。
街の歩道の真ん中に立ち止まっているあたしたちを道行く人々がチラチラと見ている。気付けばあたしは清四朗の胸のところに密着していた。こんな公衆の面前で男女がくっつくなど御法度だ。
あたしは慌てて清四朗から離れた。
「おお、すまなかった。大丈夫だ」
清四朗とあたしは再び歩き始めた。
「洋太の家は農家なのか?」
「ばあちゃん家が農家らしい」
「洋太は気前がいいな。大根を10本もくれるんだ」
「……収穫を1日手伝って大根10本は安いと思うが?」
「そうか?だが洋太はあたしを誘ってくれた。いい奴だ」
「……俺もチヨのことは何度も誘っている」
「そうだな。ところで洋太はどこに住んでいるのだ?洋太の家族はきっと幸せだ。洋太は」清四朗はあたしの言葉を遮って怒り口調で言った。「洋太はもういいだろ!」
あたしは目をパチクリとさせた。
「何を怒っているのだ?」
「怒ってなどいない!行くぞ!」
清四朗はあたしの右手をかさらうように握るとずんずんと早足で歩き始めた。あたしは清四朗に引っ張られて小走りになった。
「おおお、早いな、どうしたというのだ?便所が漏れそうなのか?」
清四朗は歩く速度を緩めると立ち止まってあたしに振り向いた。
「すまない……つい歩調が早くなった」
「いいんだ。便所が漏れては大変だからな」
「便所ではない」
そう言うと清四朗はあたしの速度を気にしながらゆっくりと歩き始めた。
「無理をするな。便所は恥ずかしいことではない。生き物はみんな便所をする。便所を我慢すると身体に毒だ。急いだほうがいい」
「いや、本当に違うから」
清四朗はどうやら便所が恥ずかしいらしい。そうだな。あたしたちはお年頃だからな。家でも清四朗が便所に入る回数はあたしよりも少ないからきっといつもお母ちゃんやあたしの目を気にして我慢しているのだろう。ここはあたしがひと肌脱ぐしかなさそうだ。
「清四朗!!家まで競争だ!!」
「え?なんだいきなり?」
戸惑う清四朗を置いてあたしは走り出した。
「おい、チヨ!街中を走ると危ないし迷惑だ!」
清四朗もあたしを追って走り出した。よし。これで早く便所に行ける。
そうして清四朗とあたしは早々と無事家に到着した。
玄関を開けるとすぐにニワさんが家の奥から猛ダッシュで走って来てあたし達を出迎えた。
「コッコッコ!」
「おお、ただいまニワさん!」
ニワさんは両手を広げるあたしに飛びついて、あたしはニワさんを抱きしめた。
「キュ~キュ~」
「ニワさぁ~ん」
ニワさんと頬ずりをしていると台所のドアが開いてお母ちゃんが出てきた。
「おかえりなさい」
「おお!ただいま!」
あたしの後ろで清四朗がドアを閉めながら「ただいま」と控えめな声で言って、お母ちゃんはあたしからニワさんを取り上げると「ほら、チヨ」と少し厳しい声であたしに清四朗のコートを取るように促した。
あたしは、清四朗がすでに脱ぎかけているコートを脱がせる手伝いをした。台所からは煮物の良い匂いがしていた。
清四朗とあたしはお腹がまだ空いてなかった。お母ちゃんは清四朗に風呂に入るように言った。清四朗が風呂に入っている間にあたしに話しがあるそうだ。
煮物がグツグツと音を立てている鍋を見ながらお母ちゃんが台所の机の椅子に腰かけた。
「チヨも座りなさい」
深刻な顔つきのお母ちゃんに「?」となりながら、先に餌を食べているニワさんの横にあるあたしがいつも座っている椅子に腰かけた。
向かいの椅子に座っているお母ちゃんが両手を膝に置き背筋をピンと正した恰好であたしを見つめて話を始めた。
「今日の昼過ぎに倫之介さんがみえました」
「え……?」
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