チヨの苦悶・9

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チヨの苦悶・9

 倫之介の姿が頭に浮かんだと同時に胸が苦しくなった。  お母ちゃんは続けた。 「この前うたさんが言っていたことを気にしているのね?」  あたしは少し視線を下げてテーブルの上に並んでいる漬物を見つめた。 「うん……瑞代ちゃんが倫之介を好きで、瑞代ちゃんには倫之介しかいなくて、倫之介が瑞代ちゃんから離れると瑞代ちゃんは死んでしまうかも知れないから……」 「チヨは倫之介さんが居なくても生きていけるの?」 「……倫之介とずっと一緒に居たいが、居なくなったからといって死ぬことはない。あたしにはお母ちゃんやニワさんや清四朗が居る……だが瑞代ちゃんはうたが居なくなったら家族が居なくなる……」  あたしは顔を上げてお母ちゃんと目を合わせて続けた。 「だが、倫之介を好きな気持ちは消えないし、倫之介を思うと苦しくなるんだ。かと言って、もし倫之介とあたしが結婚をしたときのことを想像すると、瑞代ちゃんが泣く姿が思い浮かんで前みたいに倫之介と結婚することが幸せだと思えなくなった……でも倫之介を好きだという気持ちは消えることが無くて、どうすればいいのか分からないんだ……!」 「……そう。実はね、チヨ。わたしは瑞代さんと2人で会って話をしたことがあります」 「え……?お母ちゃんと瑞代ちゃんが……?いつ……?」 「チヨと清四朗さんが野原に出かけた日があったでしょ?あの日、瑞代さんが近くまで来たからって、チヨに会いに来たの」 「ああ、あの野原へ行った日か」  お母ちゃんは小さく頷いて少し微笑みながら続けた。 「チヨは留守だったけど、せっかくだから上がってもらってお茶をお出ししたわ。瑞代さんはわたしが眞吉さんの妾だとは知らないし、チヨの恋人は清四朗さんだと思い込んでいるようね。あの方と喋って思ったのだけど、松尾の奥様に似ている気がしたの。と言っても、松尾の奥様と直接お話ししたことは無いのだけど。眞吉さんからはどんな方か聞いていたから……」  お母ちゃんの顔から笑みが消えて真顔に戻った。凜とした声で更に続けた。 「うたさんの言ったことはおそらく的を射ていると思います。松尾の奥様もわたしを始めとする妾たちの存在で心の病を煩っていたそうです。瑞代さんもご両親が居なくなったことで心が少しおかしくなっていると感じました。チヨは倫之介さんと一緒になっても瑞代さんのことで生涯苦しみ続けて幸せにはなれないかも知れないとはずっと考えていたのです。それで今そうして苦しんでいるのなら、倫之介さんとは離れた方がいいのかも知れません」  あたしは何も返事が出来なくて固まったまま聞いていた。お母ちゃんの目がギラリと鋭く光った。 「今日チヨが倫之介さんに『瑞代さんの側に居てやって欲しい』と言って食事をせずに逃げ出したということが答えじゃないのですか?」  あたしの身体がビクンと揺れた。  矛盾しているのだが倫之介と別れることが現実になりそうだと感じた途端、寂しくて悲しくて心が痛くてそれは嫌だと思ってしまっていた。  そのとき台所のドアが開く音がして、お母ちゃんとあたしはドアの方へ振り向いた。風呂から上がった清四朗が浴衣姿で肩に手ぬぐいをかけた恰好で入ってきた。 「お先~。あ~、腹減った」  呑気な声でそう言いながらあたしの隣りのいつも座っている椅子に腰かけた。 「今お皿に盛りますね」  お母ちゃんは微笑むとそそくさと立ち上がった。ハッとしたあたしも慌てて立ち上がって清四朗のご飯をよそって湯飲みにお茶を注いだ。
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